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臨海学校の子どもたち
臨海学校の子供たち(築地小学校)。バックの建物は、宿泊していたさざ波館。撮影は昭和6年です。
(写真提供:さざ波館様)
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海水浴客で賑わう岩瀬海岸。
殆どが民家に逗留していた避暑客たち。ふんどし姿は地元の子から都会の子たちへ。「東京っぺ」・「田舎っぺ」といいながらも結構仲良く遊んでいました。昭和6年8月撮影。 写真提供:堀
恒子様
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海水浴客で賑わう大貫海岸
海水浴客の殆どは大貫逗留の避暑客たち。この時代、7・8月には町に人口が2倍以上になったそうです。貸家料の他に、食料・日常雑貨など殆どが現地調達であったので経済の波及効果はかなり大きかったようです。昭和7年撮影。写真提供:堀
恒子様
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小久保川河口
大貫小久保川河口の連絡船波止場から撮影したはがき。検閲済みの押印がはがき上部に記載されている。
戦前、戦中の風景写真には東京湾要塞司令部検閲済みの押印があります。
写真提供:堀 恒子様
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地引き網漁と避暑客。
網引きを手伝って土産に採れたての魚を貰って帰るお客さんもいたようです。地元の少年には、浴衣姿の東京のお姉さんがまぶしかった。昭和10年頃の写真です。
写真提供:堀 恒子様
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大貫町海水プール競泳大会
小久保の築港をプールに仕立てて水泳大会が開かれた。多くの人で賑わった様子がわかる。昭和10年大貫町絵はがき(堀商店)をコピーしたもの。写真提供:堀
恒子様
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岩瀬海岸海水浴場。
昭和25年頃の写真です。終戦後数年ですが、かなりの人出です。海の家は藁葺きですが、今時の新建材造りよりも涼しくて快適ではなかったでしょうか。藁の入手が大変でしょうが、個性的な海の家として試してみてもよさそうですね。
写真提供:羽賀理髪店様
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昭和47年頃の岩瀬海岸。
当時、海の家は小駒・平塚・三木・平兵衛・田中新聞店の5店があった。交通の便がよくなったため、日帰り客が殆どで、海の家が繁盛していた。現在は1店のみ営業(平塚さん)。
写真提供:田中新聞店様
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大貫海岸の歓迎アーチ
昭和30年から50年にかけて、大貫海岸は海水浴客で賑わっていました。ごみも少なく、交通事情も整備されていなかったので、外房や九十九里方面の日帰りは無理であったためと思われます。写真は岩瀬海岸への入り口付近にあった歓迎アーチ。
写真提供:藤平 孝様
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大貫海水浴場
昭和30年代後半から40年代にかけては、護
岸堤が作られ、砂浜は狭隘になっていたが、岩瀬から篠部にかけての海岸一帯は多くの海水浴客で賑わっていた。 写真提供:大佐和商工会様
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