「大貫夏季大学」と青春の軌跡
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大佐和の歴史と文化を学ぶ会

主催 グリーンネットふっつ


日時  平成18年5月27日(土)  会 場 さざ波館会議室

    その5 「大貫夏季大学」と青春の軌跡

講師 刈込碩弥 先生


 終戦直後の価値観の逆転、極度の物資の不足など混迷の中から若い力が立ち上がり「潮会」が結成された。その「潮会」の活動は「大貫夏季大学」として結実し地域文化の発展に大きな軌跡を残しました。その運営の中心的役割を果たした刈込碩弥先生に戦中・戦後の教育と「大貫夏季大学」のルーツ等について話していただきました。


 

 代表挨拶

  グリーンネットふっつ 代表 白井敏雄

 皆さんこんにちは 今日は5月の末ですが非常に天候が悪くて寒い感じですが第5回目の勉強会にご参集いただきまして誠にありがとうございます。今日おいでいただいた方々の中には会員もおりますし、近隣の有志の方々にも参加いただき本当にありがたく思っております。紹介が遅れましたが私グリーンネットふっつの代表しております白井敏夫と申しますよろしくお願いいたします。今回の講演も当館の館主であります刈込碩弥先生にお願いをしております。ご存じのように高齢でありながらわれわれの要望に対して毎回応じていただいていることを本当にありがたいと思います。これからも体調に十分注意されて学習会の講師になっていただきたいと思う次第です。

 本日のテーマはレジメにもありますように、戦後いち早くこの大貫の地区で「大貫夏季大学」 というものが開催されました。「大貫夏季大学と青春の軌跡」というテーマで1時間程度話をしていただきます。「初めに街ありき」という小冊子を見ましたが先生には大変な人脈がありまして私たちには計り知れない推進力というものがおありです。そういう中で先生がおもい入れられたことを今日お話ししていただけるわけですが資料の6ページ中程あたりにそのことが記載されております。今から60年前にこのような活動があったということをわれわれは学ばなければならないしある面では継承していかなければならないのではないかと思います。

 近年各地でこの種の復古調、つまり古くて新しい人や物を大切にする機運が全国的に高まってきております。このことが今われわれが進めている地球環境守ったり、環境保全に大きな役割を果たしていくのではないかと確信をしております。ご存じのようにわれわれ「グリーンネットふっつ」が一昨年から重点的に進めております、礒根海岸の浜昼顔の復元事業もその一環としてとらえているわけです。そのことについても格段のご協力をいただきたいと思います。

 花は美しいですが回りの環境との調和があってこそ自然との調和がとれているのではないかと思います。そのそのためにはわれわれのできる範囲のことをやっていかなければならないのではないかと思います。礒根海岸という地形は湾になっていて山を背負っているのでどうしてもゴミが漂流する地域だと言われております。内房で1番ゴミが多いという地域です、浜昼顔にはゴミは不要ですがそれはどうにもならない部分と除去すればきれいになるという両面を持った現象だと思います。さらに不法投棄された土砂のために、本来海岸にないような土砂が流れ出てきて雑草が茂ってその除去に苦労しているというのが実態です。まだまだ完全ではありませんがある程度めどがついたのかなと思いますし、いやそうではないという人もおります。浜昼顔は本来人の手によって繁殖するものではありませんけれども、心ない人間つまり銭金のためにある時期全滅の危機に陥っておりまして、これはみんな人がもたらした問題でありまして、もとに戻そうという運動を進めております。花は自然に咲くものであり咲かなくても美しい海岸が蘇れば環境美化につながっていくのではないかと思います。私は作業をしながら常々考えております。これからも皆様のご協力をお願いしたいと思います。
 
 今日は近隣の方々に多くの参加をいただいております。高根区、浜町区、仲町区、川向区などが多くの参加をいただいておりますことをお礼申し上げたいと思います。初めにあたりましてごあいさつといたします。


 

テーマ「大貫夏季大学」と青春の軌跡

 講師 刈込碩弥 先生

 

 竹岡小学校教員の頃

 こんなお天気の中はよくおいでくださいましたありがとうございます。 今紹介いただきました刈込でございます。 レジメをプリントしていたりしましたので勧めやすいのではないかと思っておりますが大貫の夏季大学ということです進めさせていただきます。

 私は大正4年生まれです。関東大震災は忘れずに覚えております。私は最初は竹岡の学校でした。県の指定学校だから推薦するといわれていきました。1週間に1回は校内の研究授業があるし、年に1回は県や郡の研究発表会がありました。研究授業は職員全員が公開することになっていました。
  私は竹岡に汽車で通っていたのですが、学校は竹岡の駅からかなりありました。駅のそばへ自転車を預けておいてそこから学校へ通っていました。ときには1番列車でいかないと間に合わないこともありました。時には汽車に遅れて遅刻するので、大貫の自分の家から自転車で学校まで飛ばした事もありました。夏は大汗をかいてくたびれてしまうものだから裸になって教壇の上に横になっているとついウトウトしてそのうち子供がやってきて来て起こされるという恥じをかいたことが何遍もあります。
  学校が終わってから研究会などをやってると帰りが遅くなりました、羽根坂は勾配もあるし時には「追いはぎ」もでるという話が残っていた時代でどうも億劫でした。八幡の方が近いかなと思って八幡を回るとトンネルの中も街灯がなく何としてもこれは勤まらないと思いました。うちから寝具を送って宿直の先生に断って「今夜泊まらせてほしい」と頼んだこともありました。かくもっと勤めの楽なところはないかと思っていました。

 外地派遣教員に応募し朝鮮に行く

 昭和16年小学校から国民小学校に制度が変わる時でした。校長が「県が外地派遣の教員を千葉県でも推薦する」といったので私はすぐ手を挙げて応募しました。校長は「君は親の許しを得ないでそういうこと勝手にやって大丈夫か」というので「はなしが決まれば親を説得します」と言いました。そして県が私を外地派遣させるということになりました。その時はどこへ派遣されるかということも検討がつきませんでした。最初の辞令は、今でいえば朝鮮の平安南道でした。「平安南道へ出向を命ず 千葉県」というものでした。名前を聞いたこともないし、この大貫でも朝鮮をよく知っているのは堀さんの京城帝大医学部出身の先生くらいでした。といっても大学へ行くわけではないし勤めに行くわけだから先生に聞いてもあまりよく分かるわけではありませんでした。県の役人もあまり朝鮮のことは分からず「辞令は発行するから自分で勉強するより仕方がない」と言っておりました。とにかく行くことになりました。

 私は大貫駅から平壌(ピョンヤン)までの切符を買っていきました。その当時出張の場合は国内は2割引でしたが、外地は5割引でした。私は2等車(今でいうグリーン車)の切符を買って乗りました。竹岡の先生が1人大貫駅まで見送りに来てくれました。玄界灘は8時間かかりました。今の人は飛行機を使うと思いますが、その当時も飛行機はあったのですが軍部が押さえてしまって一般民間人は連絡船を使うしか方法がなかったのです。いつの時代でもそうですが船の食事というのはよくて鯛の刺し身などがでました。夕方下関の港を出まして翌朝に釜山へつきました。

 向こうへ行ってから市電に乗り役所がどこか聞きました。朝鮮は日本のように県ではなくて今でもそうですが「道」といっていました。私の行った所は平安南道にある港町の陳南浦でした。役所行ったらまず平壌神社へお参りにしてこいと言われました。その間にお前の行く辞令をつくっておくと言われました。そこは日本人学校であったので朝鮮語はあまり使わずにすみました。朝鮮語はあまりおぼえられませんでしたが朝鮮漬けはよく食べました。そんなわけで丸3年朝鮮におりました。

 まだ明るい時間であったのであいさつをしようといきましたら廊下に戦闘帽がずらりと並んでおりました。軍人がきているのかと思いましたらそうではなくてで職員があの当時は戦闘かぶっておりました。昭和16年の4月でした。その年の12月開戦となりました。下宿の同僚の教員から「朝鮮くんだりまで来るのだからお前はなにかやったのではないか」と言われました。向こうにいる人はみんな東京へ行くことをあこがれていました。日本の中心の東京を超えて朝鮮くんだりまで来たんだからお前は何か失敗はしたのではないかと言われました。
 
 私は千葉の学校を昭和14年3月31日卒業し徴兵検査も受けて4月1日佐倉の連隊に入隊しました。あの当時師範学校出は5ヶ月入隊して下士官の伍長になってわたしも将校適任証をもらいそして除隊しました。その後なかには幹部候補生として将校になった人もおりますが幼年学校の教官になった人もいました。そういう時期に私は陳南浦に赴任いたしました。その年昭和16年12月が開戦でした。

 その直前ごろ授業中に校長室から呼び出しが来て視学官もいる席で白紙の用紙に署名捺印をするように言われました。「お前には召集がきている」「朝鮮に教員としてきているものを朝鮮総督府は陸軍に渡したくない、召集延期の手続きだ」「他言は無用、世間に発表されては困る」と言われました。当時学務関係機関も軍に対して力をもっていたと思われる。世間では召集令状はくればいかなければならないものと思っているが印鑑を押せばあとは役所が処理するといわれ、私を教員として期待しているところがあるのかと思い一生懸命やらなければならないと思い決心を新たにしました。


 戦時中の教員生活

 その後3年して帰って来てみると教員にも次から次へと召集が来ておりました。平野さんのお父さんや小駒元治さんも出征しました。ところが私には朝鮮の召集延期の手続きが千葉県にも回ってきているからか気にしないで安心してやっていればよいと言われました。期待にこたえていかなければならないと思っていたところ昭和16年の4月木更津へ出校することになり、辞令をもらって今の木更津一小へ赴任いたしました。校長は保田出身の方でしたが「外地勤務ごくろうさん」といって10円の月給をいただきました。このことが先輩教員からねたまれることもありました。

 赴任したらすぐに君津郡市の教育研究会当番だから授業をやれと言われました。6年生の自転車の分解、組み立てをやることになりました。自転車のことは素人なので近所の自転車屋に行って聞くことにいたしました。当日は教室ではなく運動場で行うことになりました。すると自転車屋さんも心配だから「手伝うよ」といってやってきました。私はここでも助けられたなと思いました。教師が知ったふりをしてやるよりも専門家を交えてやると面白いということを初めて経験しました。

 ところが、その後の批評会では教頭連中の人ばかり集まっておりましたがこの時とばかりに(出世のチャンスをつかもうとしたと推定しますが)こてんこてんに批判されました。「この時期に自由教育とは時代錯誤も甚だしい」と批判されました。千葉師範は大正の終わりから昭和のはじめまで自由教育でならした学校で、日本の教育史を開いても千葉師範の自由教育は活字で残っております。そういう時代に私も教生を行いました。付属の先生は「自由がなくて何の教育ぞ」とやっていました。本校の先生は時代の波にのって「自由などとはとんでもない」といって頭を抱えていました。
 

 戦後の大貫

 その後私は自然退職ということで働かないで家におりました。退職願いも出さないで退職し教員生活を終わっています。戦後になって恩師が大貫女学校の校長になってきて教員をたのまれたことがあり1年ばかりやりました。そんな時期に自由学園の羽仁先生から教員でこないかと手紙をいただいたこともありました。その時期に「潮会」という文化団体を堀四志郎さんが音頭をとって学生などみんなが集まってつくることになりました。そのころ大貫に米田さんという海運局の方がおりました。奥さんは風が吹くと海岸にまつごを掃きに行って燃料にしてしのいでいました。米田さんも私たちの若い仲間の中に入ってお付き合いはいたしました。戸塚さんという方は中学校の上に別荘をつくって住んでいました。親はむかし強壮剤「トッカピン」をつくって有名な人でした。

 大貫に避暑客がくるようになったのは大正の大震災の頃からでしたが昭和になってから避暑客はどんどん増え大貫は人口5,000人くらいでしたが夏になると1万人になりました。地元の人は東京の人と親戚付き合いとなった人が多くおりました。戦争になると買い出しに来たり、子供が東京の学校へ行くとを保証人になってもらったりしました。家賃は畳1枚いくらという計算で行われ貸家、貸間が増えました。新舞子や新田の方に別荘が建ちました。戦後は他の方へいってしまいました。
このように昔は都会の人と大貫の人は親戚付き合いをしていました。このことを私は良いことだと思いますが今はそのようにならないようですね。そういう時期が過ぎると釣り船で大貫来る人が出入りするようになりました。岩瀬の川の両岸は一本釣の船があたくさんありました。気にいった先頭には船まで作ってやるという時代がありました。その後客はどう言う訳か今は竹岡へ集まっています

 

 大貫夏季大学を支えた人々

 大貫に潮会が発足し、地道な活動の中にも突如NHK録音隊の来訪で天手古舞していた頃、隣りの佐貫町では、中川大倫氏を中心に佐貫町文化協会が発足し、昭和21年7〜8月にかけ佐貫夏季大学を同町新舞子海岸八幡分教場で開講されました。佐貫郵便局長斉藤省吾氏、小嶋和夫氏、早大生宮信吾君等はこの中川氏の活動に協力し、その準備に大童でした。
 佐貫夏季大学は好評裡に第-回を修了したが、東大大学院生中川氏の都合もあって、次は大貫で引き継ぐことになりましたが、戦後の荒廃の中で、日本文化再建のために、虚脱と混迷の世に一大警鐘を乱打し、地方文化推進に大きな役割を果たした佐貫夏季大学の業績は高く評価されるべきです。
 主宰者中川大倫氏は、その後、信州大学教授となり、松本市に転居したが、父上大仰師亡きあと佐貫勝隆寺の住職として檀家に事あれば帰省し、おつとめされています。

 大貫町「潮会」は昭和22年5月から各種団体に呼びかけ、夏季大学の準備を進め、同年8月「第-回大貫夏季大学」を開講したが、伝統を誇る木崎の信濃夏季大学は、第31回を記録したわけで、木崎30年の年輪を遥かに仰ぎながらようやく幕をあけた感動が、当時の青年学生の活動と共に甦ります。開催にこぎつけた「潮会」、わざわざお出下さった講師の諸先生、物心に亘りご協力下さった地元の諸先輩、これらのご努力は、聴講者の脳裡にいつまでも、、生き続けるよう願うものです。この夏期大学は10年継続して栄光の幕を閉じましたが、「潮会」を軸に、婦人会、千教組、県杜教育課のご協力と、毎日新聞社後援で、資金は県費補助と聴講料と民間特志寄付と、後には町の補助もいただいき、それらで賄われたが、殊に地元カギサ醤油社長鳥海才平様、医博斉藤行蔵先生、新聞販売店主渡辺要吉氏、平野屋書店平野定司様のご援助は有りがたかった。

 戦後、天羽地区で池田氏の主宰する「あくたか会」と久留里地区で雨域文化連盟会長高沢一雄氏と潮会の私とは、木更津中同期の3人組で地域の文化運動を推進した仲間なのである。家業を守りながら、商人にもなりきれず、政治家にも徹しきれず、文化運動も道遠しであった。在野の自由人としての喜びを咲いながらも、生きることのむつかしさをかみしめながら、人生の光と影にまどうぱかり…。だが、思えば戦後、多くの青年、学生と手を握り、あまたの先輩、先達までも巻き込んだ潮会の活動と、大貫夏季大学10年の栄光のてん末など思い起す時、青春の夢未ださめずの感を深くするばかりである。


(資料)講義内容と講師

大貫夏季大学小史より


ごあいさつ
明るく、豊かな生活を築き上げようと私たちの大きな希望から生まれた、この小さな営みではありますが、幸に県教員認定講習を兼ね単位に繰り入れる事ができるようになりました。講師諸先生のご協力とご参加の皆様のご熱意に感謝申し上げ、今後もこの夏季大学を育て上げるために尚一層のご協力をお願い申し上げます。

第-回(昭和22年8月1〜4日)

農村間題 東大教授・農博東畑精一氏
魚と海流 水産講習所教授海老名謙一氏
生活の科学化 元東大教授・工博富塚清氏
遺伝と優生 東大教授・理博篠遠喜人氏
音楽ビクター専属徳倉貞子氏・大島正泰氏
ソ連及びソ連人(第-講) 毎日新聞編集顧問黒田乙吉氏
アメリカの民主主義 毎日新聞渉外部長高田市太郎氏
現政局を斬る 毎日新聞政治部長高橋司三次氏
憲法論 東大教授・法学博士 宮沢俊義氏
(聴講者延べ;1000名。教員認定講習を兼ねる)

第2回(昭和23年8月1〜5日)

日本経済の動向 参議員議員 高瀬壮太郎氏
最近の遺伝学 東大教授・理博 篠遠喜人氏
ソ連及びソ連人(第2講) 毎日新聞編集顧問 黒用乙吉氏
国際情勢 毎日新聞編集総務 工藤信一良氏
世界と宗教と生活 上智大学教授 小林珍雄氏
シューベルトの生涯と音楽 音楽評論家 野村光一氏
歌曲音楽 ビクター専属 徳倉貞子氏・大島正泰氏
これからの社交 大正大教授 坂戸智海氏
歴史とヒューマニズム 小此木真三郎氏
経済問題 参議院議員 帆足計氏
新教育について 海後勝雄氏
(聴講者延べ;1000名。教資認定講習を兼カる)

第3回(昭和24年8月1日〜6日)

アメリカの特質 サン写真新聞社長 石川欣一氏
九原則下の経済 日本経済新聞経済部長 佃正弘氏
ソ連及ぴソ連人(第3講) 毎日新聞編集顧問 黒田乙吉氏
農村生活の改善と酪農 畜産試験場長・農博 中江利郎氏
激動する二つの中国 毎日新聞東亜部 信国大典氏
性教育について 評論家 羽仁説子氏
衣の生活 元自由学園教授 篠遠よし枝氏
観光・教育・生活 日本交通公社監察役 西川正平氏
国際情勢 リーダーズダイジェスト日本語版編集長 鈴木文史朗氏
ヒューマニズムと教育 参議院議員・法博 田中耕太郎氏
文化の国際性 評論家 柳沢健氏
(聴講者延ぺ;1000名。特に羽仁、篠遠両女史の
講演は最も盛会で参加400名。この年より婦人の参加がふえた。)

第4回(昭和25年8月1〜3日)

遺伝学はどのように生活を支配しているか 東大教授・埋博篠遠喜人
民衣の技術 元自由学園教授篠遠よし枝氏
福沢諭吉論 参議院議員羽仁五郎氏
新しい教育 評論家羽仁説子氏
世界の動き 毎日新聞論説委員池松文雄氏
日本の経済 毎日新聞経済部長山本正雄氏
音楽 小方文子氏と青山学院グルーブ
(小林勇、登美江夫妻欠講。聴講者延べ;◎◎名。
期間中、木更津美術連盟展開催)

第5回(昭和26年8月1〜3日)

世界の動きと講和 毎日新聞客員 永戸政治氏
婦人と家庭 参議院議員 宮城タマヨ氏
講和と日本経済 東京商大教授 赤松要氏
水泳実習 日本水泳連盟理事 西本義海氏
音楽 山鳩・砂山両合唱団
(聴講者延べ600名)

第6回(昭和27年8月1〜3日)

世界の動き 毎日新聞論説委員 向後英一氏
中国の女 鳥居龍蔵氏長女 鳥居幸子氏
性教育 文部省純潔教育委員 中村利枝氏
東南アジア貿易 一橋大教授 板垣与一氏
音楽鑑賞 文部省 諸井三郎氏
(聴講者延べ300名)

第7回(昭和28年8月1〜3日)

古代房総の人々 早大教授 滝口宏氏
経済の動きと中小企業 一橋大教授 高宮晋氏
激動する二つの世界 毎日新聞論説委員 向後英一氏
小説の効用 作家 大江賢次氏
TV実写と演劇の話 NHKTV局長 吉川吉雄氏
(聴講者延べ250名。他に8月2日夜、小久保海岸
でTV一般公開、観覧者500名で好評)

第8回(昭和29年8月1〜2日)

死の灰を追って 毎日新聞社会部 俊骨丸特派員 福居浩一氏
国際情勢 毎日新聞論説委員 佐倉潤吾氏
女とくらし 元自由学園教授 篠遠よし枝氏
夏の踊り 坂東流名取 坂東三江浜社中
くらしの中の花 池ノ坊家元参事 松原秀耕氏
地球一巡りの旅 (スライド併用) 国際基督教大教授・理博 篠遠喜人氏
ヒマラヤ登山報道写真展 (毎日新聞社提供) 期間中、於会場
(聴講者延べ500名)

第9回(昭和30年8月10〜11日)

原子力とこれからの世界 毎日新聞論説委員 藤田信勝氏
女とくらし 元自由学園教授 篠遠よし枝氏
映画「原爆の子」 県社会教育課提供
音楽解説 コロンビヤ元文芸部長 森本二郎氏
夏の踊り 坂東流名取 坂東三江社中

第10回(昭和31年8月9日)

社会評論 サンデー毎日編集次長 松田ふみ女史
農村と婦人 評論家 丸岡秀子女史
(聴講者延べ400名)

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