山口おじさんとハマヒルガオ
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          大佐和の歴史と文化を学ぶ会 W                           

             主 催 グリーンネットふっつ

 


    日 時  平成17年11月12日(土)  会 場 さざ波館会議室

    その4  山口おじさんとハマヒルガオ


          講 師  刈込碩弥先生


 「コッペ塚」に海岸で見つけた流木や、廃材を利用して滑り台、鉄棒、ブランコ、木馬を独得のデザインで造り上げ、子供たちを喜ばた。 同氏の愛情は「ハマヒルガオ」から「ハマボウフウ」、「ツキミソウ」 にも及ぶ。 小林一茶、伊能忠敬、井上靖にもふれた環境保全のお話。  


 白井敏夫代表あいさつ 

 大佐和の歴史と文化を学ぶ会は今回で第4回目になります。
10月22日予定しましたが講師が体調を崩されたので日延べになりました。今日の話は、ハマヒルガオ、ハマボウフウ、児童公園に関わる山口虎次郎さんのことについて話して頂きます。
資料は平野正巳さんが作成しお配りしました。私たちには知らないことがたくさんあります、先人の残した足跡や歴史を学んで活動に取り入れていきたい。
 本日は多くの方が参加しました。氏子代表さん、浜町区長さん会計さん、仲町の斉藤さんのお世話で多くの仲町の方、そして川向より2名の方が参加しました。
 今年は戦後60年ということであの戦争を風化させない取り組みがいろいろと行われています。ところが一方国際的に今、戦争・内紛がたくさんおきています。欲望が先走りとんでもない方向へ進んでいるのではないでしょうか、人類は仲良くしてもらいたいと思う。2つのテーマでお話を聞き先生の苦労話を通して先生の人間性を知ることができると思います。5時30分までお話し頂き質疑応答したい。以上挨拶とします。


 山口おじさんとハマヒルガオ  講師 刈込碩弥先生

 

   コッペ塚付近のハマヒルガオ
                   

   ハマヒルガオ発芽 

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 今年も大貫海岸の「浜昼顔」は一斉に咲き乱れ、散歩の足をしばしとめるのである。 5月一杯は満開が続き、幅10m、長さ50mに亘り防潮堤を背に、海に向ってピンクのジュウタンが敷きつめられている。
 その一角に焼板の立札があり、一茶の句、「大汐や 昼顔砂にしがみつき」と白文字の走り書きが一層風情をそえて初夏の日ざしに照り映える。
 「山口おじさん」の丹精が実のり、この「昼顔花壇」は年々拡って行く。見廻りに来た山口さんに伺うと、廃材を利用して作ったが、句はNさんの揮竃であるという。協力者が一人でもふえてくるのは望ましい事だ。
 俳人小林一茶(1763〜1827)と西上総とのかかわりは深く、十数回にわたりこの地を訪れている。江戸から舟で木更津に入り、陸路富津を訪ね、大乗寺を常宿として名主であり俳友の織本砂明、その妻、花婿と親交を深めた。殊に花婿の生前6回、没後6回程富津を訪ねている (『富津市史・通史』昭和57年・富津市刊参照)。
 この句は一茶「七番日記」の「出崎一見」の項(『一茶全集第三巻』信濃教育会編、信濃毎日新聞社、昭和51年12月30日刊)に出てくる。一茶、文化9年4月22日の作になるが、既に一茶は同年3月28日「富津に入、夜雨」とあり、一カ月近くもこの富津に滞在していた。4月21日大シケがあった。)
「21寅刻より大北風、大雨、房州大川村徳三郎舟於宮崎出崎破船、7人中5人死亡、同時に富津市五郎舟於羽田沖難船、9人中2人死」とあり、更に「22晴、馬来蟻竜来、今日出崎一見、破(砂)明上人外童2人、防風及千鳥ノ卵有、貴船杜参ジテ申時二帰」とある通り、翌22日は晴れたので、浜の様子を見に出かけ、富津海岸での所見を作句したのだろう。

 この「大汐や」の句と並び「昼額や、ざぶざぶ汐に馴れてさく」も記されている。尚、植物学者亘理俊次氏は、この地区の海岸植物の生態にくわしく、その著『海岸の花』(山と渓谷社刊)の中の「浜昼顔」のページではやはりこの「七番日記」を引用しているが、一茶と富津とのかかわりは深く、俳人花嬌とのおつき合いの中にもこの可憐で美しい「浜昼顔」をいとおしむのである。
 戦後、日本の再建が緒についた昭和27年頃、私は「採集と飼育」誌に「ハマヒルガオは誘惑する」の小文を寄稿した(前著『科学以前』)収録が、この花は地元では見慣れ、花瓶にさす花でもなく、食べる野草でもないのか、「ハマヒルガオ」については話題にもならなかったようだ。
 山野にそして川畔に、草木にからみついているヒルガオ科「ヒルガオ」(多年生草本、蔓性、葉は長楕円状、長い葉柄あり【居初庫太箸『花の歳時記』】)は、かつてリストがショパンを評して「なよなよとした青い花の昼顔のように」(野村光一著『青い花の昼顔』講談社刊)の名句の通り、全くなよなよとしたものだが、同じヒルガオ科でも海岸育ちの「ハマヒルガオ」だけは、ツヤのある厚い丸葉で蔓は延々とのび、砂に埋れてもはい上り、炎天下に花開くそのたくましさに魅せられてしまう。
 高度経済成長の波は、岩戸景気、神武景気、元禄景気と盛り上ると共に、開発ブームを捲き起し、科学の盲信か、それとも人知の過信か、山野はブルトーザーの躁欄にまかせ、海岸の埋立では干潟の喪失が問題となった。自然保護、環境保全が心ある人たちの悩みとなり、社会問題として論議されるようになったが、昭和四十一年に発足した大佐和ロータリークラブでは、創立三周年に、クラブの歌を制定したいという会員の提案で、歌詞を募集した。松本剛夫会員の作が当選ときまり、作曲は山口芸大山本艶子先生にお願いする事ができ、会員に愛唱されている。

 ♪大佐和ロータリークラブの歌
  淡いピンクの美しい
  浜昼顔の咲く 砂丘に
  きらめく歯車 友愛と
  奉仕の理想に 手をむすぶ
  集う友人 大佐和ロータリー
  あああ 大佐和ロータリー

 昭和51年、大佐和ロータリークラブは、創立10周年を期し栄光の幕を閉じ、新しく富津中央ロータリークラブと衣替えしたので、このワルツ風で軽快な「浜昼顔の歌」 はもはや歌うこともなく、語り草として風化して行くに違いない。しかし、浜の草の中でも、特にこの花をとり上げて下さった松本さんには感謝せずにはおられない。
 さて、目の前に拡がる海岸広場は金木町長の時に整地をはじめ、榎本町長時代に児童公園として払い下げたが、子供たち、付添う父兄たちに愛され、なくてはならぬ子供の遊び場として定着している。
 私も当時、文教厚生委員としてこの整備計画に協力し、海岸植生についても関心をもってきた。当時、吾妻神社高橋宮司の話で「江戸時代、伊能忠敬が全国を測量行脚した折、この浜の「前藻山」で小休止されたという記録がある」というので、是非、その記録を見たいとお願いしたのに、遂にその機会を得ず、宮司は逝去されてしまった。
 この事で同僚の文化財審議委員中嶋清一氏に調査を依頼した。同氏は丹念に忠敬の『測量日記』を調べて下さったが見当らず、高橋氏の言は別の資料に依るものかも知れないが、今だに確証を得ていない。
 忠敬が富津海岸を測量したのは、享和元年(1801年6月24日より同月26日までの3日間(富津市史編さん委員会編『富津市のあゆみ』)であるから、もし「前藻山」に立ち寄ったとすれば、この3日間と関係づけられるかもしれないが、残念ながら未だに資料が見つからず伝説めいた話題になっている。
 地元ではこの「前藻山」は、「コッペ塚」といって、漁師が朝起きて、浜へ出ては天気、海況、漁況や世間話のはずむたまり場としてしたしまれていた。「コッペいう」とか「コッペする」という方言があるが、「ツベコベ言い合う事」で集ってはつべこべ言い合うたまり場が漁師のいう「コッペ塚」である。
 この児童公園となった前藻山も、元は漁師の集まる「コッペ塚」であった。この広場の管理に十数年来、奉仕活動をしている一人のボランティアがいる。山口寅吉さんで、同氏の活動が人目を引くようになったのは昭和47年頃からで、海岸で見つけた流木や、
廃材を利用してせっせと滑り台、鉄棒、ブランコ、木馬を独得のデザインで造り上げ、それらの手作り遊具が子供たちを喜ばせるのである。この活動に市は、市長賞、市民憲章推進協議会からは「大工道具」を贈り励したが、相変わらず砂浜の清掃にも余念がない。同氏は当市小久保浜町の出身、今は公園の前に住んでいるが、大正3年2月生まれ、大貫小、大貫青年学校を卒え、出漁していたが徴兵検査後は意を決して横浜「日本製鉄」に就職、勤務7年にして応召、終戦で復員後は一時山形で休養し、再び勇猛心に燃え、北海道に渡り、三菱鉱業夕張炭鉱に入社、20年勤務後、昭和44年定年退職で帰郷した。炭坑時代に発病したパーキンソン氏病に悩まされ、背中の痛みや、手のしびれがこたえるようだが至って朗かである。
 この山口おじさんが「ハマヒルガオ」に注目したのが昭和46〜47年頃で、愛犬「太郎」を連れ浜辺の見廻りをしていた時、可憐なこの花に気づき大事にしたいと心に決めたという。「ハマヒルガオは誘惑する」にも刺戟されたといってくれるので恐縮の至りである。同氏の愛情は「ハマヒルガオ」から「ハマボウフウ」、更に道端の「ツキミソウ」にも及ぶ。
 砂浜では波打際からコウボウムギ、コウボウシバの群落「ハマヒルガオ、ハマボウフウ、ハマエンドウの群落−ハマウゴ、シャリンバイの低木群落−クロマツの高木林と続き、帯状に住み分けているのが海岸砂浜の植生で、自然の生態系である。この海岸植生の中へ割り込んで来たのが、鉄道草といわれるツキミソウ(オオマツヨイグサ)などの帰化植物で、沼田真博士によれば「富津洲の海岸植生の中へこのオオマツヨイグサ、コマツヨイグサが楔状に入り込み、次第に生活領域を拡げている」(『植物たちの生』)としている。この砂浜でもツキミソウは道路際に見るくらいだが、これからもコウボウムギ、コウモウシバ〜ハマヒルガオ、ハマボウフウ、ハマエンドウ等の海岸植生を乱さない配慮が必要である。夕日の美しいこの浜は、真正面に「富士」を眺み、「上総大貫山から明けて、海の白帆に陽が落ちる」(「大貫音頭」)である。
 少年の頃を沼津で過したという作家井上靖氏は、「たえず富士山に見られていることを意識して成長した」と毎日新聞日曜版に書いている事を読んだが、誰でも富士を眺める意識はあっても、なかなか「富士山に見られている」と反省する謙虚さは
少ないものである。さすがに井上靖氏の非凡な才能は、少年時代から富士に励まされ、芽生えたのかと感じ入ったものですが、この山口おじさんも、富士山に見られていると認識してか、或は、太宰治の「富士には月見草がよく似合う」の言葉を感じとったのか、ともかく、せっせと浜掃除、草木管理、遊具の手入れに精を出している。
 山口おじさんの丹精は、今、ハマヒルガオからハマボウフウにも及んでいる。この海岸にはかつては群生していたのだが、今はハマボウフウは殆んどなくなり、探すのにも大変である。ハマボウフウの新芽や葉柄は、酢に漬け、或は刺身のツマとして独得の香味が珍重されるので、乱穫されたのか、他へ移植されたのか、今は見るかげもない。
 「まちを美しくする会」は市民の発意で発足し、私はその会長をつとめているが自らは「ゴミ人間」に甘んじ、海を美しく、川を美しく、まちを美しくと願いながら細やかな努力を続け10年になるが、昨年は海岸の歩道脇に40メートルに亘り、「シャリンバイ」の養成ものを植込んだ。春には花が咲き、その実も可愛らしいので、育つのがたのしみである。これも又自然回復への「貧者の一灯」である。
 山口おじさんは、雨戸をゆさぶる風の音に、「ハマヒルガオ」が砂をかぶるのではないかと気になり、眠れないという。台風襲来では、高潮で流されやしないかと愛犬「太郎」と一緒に見張りに出ては、ゴミを拾い、棚を補強する。この春には人にふまれては可愛そうだと、わざわざ桟橋をかけたのである。この浜で、やがて「昼顔祭」のやれる日が一日もはやく来ることを祈らずにはおられない。
                  
参考文献
居初庫太箸『花の歳時記』 淡交社刊
牧野富太郎著『牧野日本植物図鑑』北隆館刊
沼田 真著 『植物たちの生』 岩波書店
宮脇 昭著『植物と人間』 日本放送出版協会
富津市史編さん委員会編『富津市のあゆみ』ぎようせい刊
信濃教育会編 『一茶全集第三巻』 信濃毎日新聞社刊

   講師と参加者

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