島崎藤村と小久保 エビ博士藤永元作氏
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大佐和の歴史と文化を学ぶ会 V
−刈込 碩弥先生を囲んで−

       その3 島崎藤村と小久保
        「日本くるまえび研究所」
エビ博士 藤永元作氏のこと

講師 苅込碩弥氏

 


 明治20年代富津市小久保に夏を過ごした島崎藤村の房総紀行と、もう一つの話は高根の築港にあった「日本くるまえび研究所」で海老の人工ふ化の研究に業績を残した藤永元策作博士の話です


 

日 時 平成17年5月14日(土)16:00〜
会 場 さざ波館会議室
講 師 刈込 碩弥先生
テーマ @島崎藤村と小久保
A“エビ博士フジナガ”と日本くるまえび研究所
主 催 グリーンネットふっつ

  開会の言葉  藤崎 宇一会員 (※は編者註)

 ただいまより、第3回「大佐和の歴史と文化を学ぶ会」を開催します。よろしくお願いいたします。はじめに、白井代表より挨拶があります。

  

 挨 拶  白井敏夫代表

 今日は暖かですが、二三日前は、冬に逆戻りをしたような寒さで、体調の管理も大変でした。
 お陰様で、「大佐和の歴史と文化を学ぶ会」も第三回をむかえることになりました。今回もたくさんの方のご参加をいただき、主催者として本当に嬉しいことです。心より御礼申し上げます。
 高根区の氏子総代三木安雄さん、区長の三木長一さん、会計の平野正明さん、八田沼で環境美化に取り組んでおられる池田和夫さん、この度、めでたく結婚された石井ご夫妻もお見えです。石井ひでみさんは青少年相談員として頑張っています。川向弁天区からは、堀 恒子さん、平野一男さん、渡辺キミさん、三木秀雄さん、白井洋子の五人が参加してくださいました。
 碩弥先生の地元からは、毎回、ご参加いただいている落合文雄さん、藤平 稔さん、平野一彦さん、木田清さんがおみえです。
 当初、4月14日を予定していましたが、講師の刈込先生が風邪をひかれたため、本日の開催となりました。先生もすっかり元気になられたので、今回も貴重なお話を聞かせていただけると期待しています。
 今年は戦後六十年に当たります。歴史を風化させてはならないということで、マスコミも様々な特集を組んでいます。またいろいろな運動も展開されています。
 長い歴史の中で育まれてきた文化の価値、それを次世代に伝える責任の重さを感じているのは私ひとりではないと思います。皆さんも、このような思いがあって、今日ここにご参集下さったと考えております。
 我が郷土大佐和にどのような文化的事跡があったのか、それらが地元でどのように伝えられ、また、それぞれの専門分野でどのように評価されてきたのか、興味の尽きないところであります。
 本夕は、刈込碩弥先生がご自身の著書や豊かな知見に基づいてお話下さいます。お手元の資料にありますように、「藤村と小久保」、「エビ博士フジナガと日本くるまえび研究所」など大変興味深いテーマについて、いろいろな逸話を交えての講演が楽しみです。また、時間に余裕がありましたら、「山口おじさんとハマヒルガオ」というテーマで、当地ボランティア活動の先駆者である山口寅吉さんのことなどお聞きできたらと思っています。
 今日は、約1時間半、碩弥先生にお話いただき、その後に20分程度の質疑応答の時間を予定しています。また恒例の懇親会を、6時より予定をしていますので、懇親を深めていただきたいと思います。

 私ども「グリーンネットふっつ」は、このような文化活動の他に環境問題などにも取り組んでおりまして、昨年より、磯根海岸の浜昼顔群落の復元事業をやっています。後で写真を回覧しますが、平成12年と昨年とでどれ程状況が変わっているかご覧下さい。活動の内容は、主に除草と清掃ですが、根気と手間のかかる作業です。会員以外でも関心のある方のご助力を頂けたら大変ありがたいと思っています。当面、6月26日に磯根海岸の清掃を予定しています。午前9時に栽培漁業センター脇に集合です。
 まとまりませんが、主催者代表の挨拶といたします。藤崎  では、刈込 碩弥先生、お願いします。

  講演  刈込 碩弥先生

 当館の宿六です。話は苦手でありまして、まとまりのよい話にならないことを覚悟のうえで席に着きました。
 今日の内容が、この町に大変深い縁があるということ、風化させてはならない重量があること、伝承が思うに任せない実態があることなどで、これは放っておけないなという思いから、重い腰を上げた次第です。よろしくお願いします。話が長くなりそうなので座らせてもらいます。

 地元では、あまり話題にならなかったようですが、平成13年9月28日付の千葉日報に「富津市小久保に夏を過ごす、銚子まで旅をした島崎藤村の房総紀行」、こんな記事がデカデカと出ました。
 千葉日報というのは朝日・毎日のような東京の新聞と違って、地元の購読者も少ないし、その記事が話題になることも滅多にないですね。
 これは千葉日報の責任ではなく、私らからみますと、千葉県が東京に近すぎることが原因だと思います。朝日や毎日の千葉版を見ていれば、用が足りるということです。
 昔から、千葉県の新聞は出るとつぶれ、出るとつぶれの繰り返しでした。戦後も、千葉新聞というのがありましたが、これは労働争議がもとでつぶれてしまいました。日本の新聞界の歴史に残るような長いストライキがありました。
 その後、どの県に行っても、県紙というのがある、なければ不便だし、県を代表する新聞がないのは恥ずかしいことだ。何とか県紙を出したいということで、千葉新聞がつぶれた後しばらくブランクがあったのですが、話がもち上がりました。
 こんなことで、川口為之助先生を中心にして、千葉日報が設立されました。ご存知と思いますが川口先生は千葉県の民選知事第一号ですね。
 川口先生は、皆さんご存知の齋藤行蔵先生(※当地選出の県議・国会議員)と県議会の同期でした。川口先生は亡くなるまで、何か政治上の問題があると、斎藤先生に相談をかけていたようです。
 俺の跡継ぎは斎藤行蔵だといって、斎藤先生を千葉県知事にしようと、かなり長い間考えておられたようです。
 私が町会議員をやっていた頃の町長は斎藤先生でした。
 当時、私は千葉の釣りの記事などを書いていました。記者が目の色を変えているので何があったのか聞くと、川口さんを探しているんだけど見つからない、ということでした。
 実はその時、川口さんは私の家の離れで秘密会談をやっていたわけですが、翌日の毎日新聞の朝刊に、「自民党は斎藤行蔵を知事に擁立する」という記事がデカデカと出ました。しかし、肝心の地元が一向に動かないので、斎藤知事は話だけで終わってしまいました。
 千葉日報社設立は、川口さんを新聞界に引っ張り出そうという動きから実現したのです。私もいろんな関係から、手伝わなければ悪いということで、評議員という立場で顔をだしていました。
 こんな事情もありまして、「藤村と小久保」の記事についても、千葉日報の千葉宣朗さんに協力することになりました。

 では、本題に入りましょう。プリントが皆さんに渡っていると思いますので、それに従って進めます。
                     
 藤村と小久保の農舎

 このあたりは、今は富津市小久保となっていますが、藤村が来た頃(※明治20年代後期)は大貫村小久保でした。
 たぶん小久保からだと思いますが、藤村が友人の馬場孤蝶に宛てた手紙が残っています。内容はプリントの通りです。 

「この小久保は、漁村で東京から見ると陽気は一月も早からう。裏には桜(梅か?)の花が白く真盛りで静かな百姓家の二階に寝起きをすれば、涛の音、松風が枕に通い、其の風情は拙い筆に盡せない。 二月五日小久保農舎にて、孤蝶兄座右 とうそん」

 こんな手紙が未だに残っているわけですから、小久保と藤村の関係は間違いない事実ですね。この手紙は島崎藤村の貴重な研究資料として大切に保存されているそうです。
藤村の年譜には「明治二十九年一月二五日十日間程、嫂と房州への旅に出、小久保に明治女学校で同僚だった小此木忠七郎を見舞い鹿野山を越えて、小湊誕生寺に遊んだ」 とあります。
 藤村は、小久保で小此木から東北学院(※現東北学院大学)の教師になることをすすめられて、仙台行きを決心したようです。赴任の前にもう一度小久保を訪ねています。藤村が25歳のときです。
 仙台から帰った後、藤村はもう一度小久保に来ています。明治30年の夏です。その頃、小久保に明治女学校(※明治女学校はキリスト教系の学校ですが、芸術を尊重する自由の学園であったといわれています。)の常宿があったそうですが、そこで一夏を過ごしたと記録にあります。常宿というのはおそらく、今でいう臨海学校とか合宿のときの宿舎といったものでしょうね。
 その後、藤村夫人となる「秦 冬」が生徒の中にいたということです。
 明治女学校の常宿があったということですが、私は子供の頃からそんな話は聞いた憶えがありません。
 この小久保の農舎とか常宿というのが一体何だったのか、どこにあったのか、地元の私も気になりまして、その道の友人などにもいろいろ聞いてみましたが結局、はっきりしたことはわからずじまいでした。
 昭和53年の12月に、千葉日報の千葉宣朗記者が私のところに訪ねてきました。
 千葉さんは、北海道の登別の出ですが、子供の頃に「夜明け前」という映画を観てすっかり感動しまして、それがきっかけで藤村にのめり込んだといっていました。
 「夜明け前」といえば、藤村の代表作で、大変な長編ですね。

(※小説「夜明け前」:「木曾路はすべて山の中である」という有名な書き出しで始ま るこの長編小説は、近代日本文学を代表する作品です。昭和4年から6年あまりをかけ て完成した大作で、34才のとき発表した『破戒』に始まる社会的テーマの集大成とい われています。主人公青山半蔵のモデルは、藤村の父〈島崎正樹 木曽馬籠宿の庄屋〉 だそうです)

 この小説の主人公は青山半蔵という人物ですが、千葉さんは、この青山半蔵の足跡を辿って木曽を隅々まで歩いて、昭和45年に「木曽路=夜明け前覚え書き」という本を出しています。
 千葉さんは、このときと同じような事情で「小久保の常宿」にこだわって尋ね歩いているということでした。
 私は子供の頃、年寄から小久保に「権兵衛」という旅館があったと、聞いてはいましたが、それが果たして明治女学校の常宿かどうか、今となっては地元でも極め手がないですね。
 私は、以前出した本のなかで千葉さんのことを書いていますので、読んでみます。

 「もし、小此木との出会いがなければ、仙台行もなかったし勿論、詩集『若菜集』も生まれなかったのではないか、(そういうわけで藤村が小久保にきたことはその後の作品を生むきっかけになっているのです)その後、ぞくぞく詩集を出し、小説も書き、近代文学の礎を築き上げる道程の中で一つの端緒となったものは、小久保の小此木訪問ではないか」と千葉記者は熱っぽく語り、『藤村文学の契機となった舞台こそ、まさしく東京湾を前にした漁村「小久保」であった』と結ぶのである。昭和五十五年秋、千葉記者の労作『島崎藤村、房州巡礼』出版記念会は、自治会館ホールを埋めつくし、盛大であった。私も参加した。 刈込 碩弥著「海には海の楽しみが」より
 
 千葉さんもとうとうわからなくなって、宿屋が駄目ならキリスト教関係を当たってみるといっていました。(※ それを知るうえでのひとつの手がかりになるかも知れないヒントは、考えている。明治女学校とキリスト教の関係である。---------すでに二五・六年にはキリスト者のための集会所が、小久保にあったことがわかる。-------- つまりキリスト教の伝道所や講義所ではなかったか、と思うのである。   千葉宣朗著 島崎藤村房州巡礼より)

 竹岡には由緒ある教会が未だに残っているそうですね。私らが子供の頃にはこの町にも日曜学校がありました。丸 東七さんとか丸のぶさんなどにお邪魔したことがあります。以前、役場の前にあった荒井の歯医者さんが入っていたところも日曜学校をやっていましたね。
 千葉さんは、この出版で藤村の研究を止めてしまったわけではなく、未だに藤村にしがみついているようです。

 冬夫人と小久保の常宿

 森本貞子さんという人が、千葉さんと一緒に来ました。
 森本さんは、藤村の最初の夫人だった「冬」の生涯を調べているということでした。
 藤村は木曽の旧家生まれ、「冬」は近代的な函館商人の娘ということで、お互いの家をめぐっていろんな問題もあったようです。森本さんはこういったことも含めて「冬」の生涯を掘り起こすために、4年以上もその足跡を辿ってきたそうです。
 森本さんのご主人は地震の研究では大変有名な学者だそうです。(※森本良平・元東大地震研究所所長)
 奥さんの貞子さんの本は私の書斎にもありますが、一流の出版社が取り上げたので、世間に広まるのも速かったようです。ご主人の名がものをいったかも知れませんね。
 日本の地震学の草分けだそうですが、ジョン・ミルンというイギリス人がいましたが、森本さんは、その夫人だった「トネ」さんの生涯をクローズアップした「女の海溝」という本を書いています。
※JohnMilne〈1850〜1913〉イングランド出身の地震学者。工部省で鉱山技術を教え るために1876年に来日しました。日本地震学会を創設し、地震学という未開拓の分野 を切り開きました。
 「冬」は函館で網問屋をやっていた秦家に生れて、明治26年に16歳で東京に出てきまして、二十歳で明治女学校を卒業しています。
 この学校は、明治29年に火事で焼けてしまいますが、再建運動が起こりまして、「冬」は卒業した後も残って協力していたそうです。
 この学校の小久保の常宿を考えるヒントになればということで、私は昔あったいう権兵衛のことを、秋葉きみさん(※元大貫小学校教員・ご実家は篠上さん*今の小久保のセブンイレブン)に聞いてみました。その頃、秋葉先生は80くらいだったと思います。秋葉先生は、権兵衛という旅館が生家の近くにあったのは憶えているけど、いつの間にかなくなってしまったし、子孫がどうなったか全くわからないといっていました。
 権兵衛がその常宿かどうか、今となっては極め手がないですね。ことによったら関東大震災の被害にあったのかも知れません。
 先ほど読んだ本のなかで、この辺の事情について、私はこんなふうに書いておきました。読んでみます。

 明治三〇年夏、明治女学校は小久保に合宿する。仙台にあった藤村は、母の訃報で急遽帰京したが、気晴らしに小久保へ足を伸ばすのであったが、藤村の詩はモダンな中にロマンを秘め、「新しい女」の憧れで、「冬」の心を動かしたに違いない。
 藤村はここで最初の小説「うたたね」を書く。後に二人は結ばれるのだが、商人秦家は、職のない藤村の小諸塾赴任を機に、二人は結婚する。 「冬」は藤村との十一年間の生活で三男四女に恵まれたが、三人の娘を相次いで失ない、自らも三三歳の若さで逝去した」と淋し気に語る女史は更に、函館の秦家別荘に建つ「冬」の義兄貞三郎還暦祝碑に藤村の辞が銅板ではめ込まれ、その上に「小波」の句、「花長者水にも富める眺めかな」がのせられていると、話ははずんだが、藤村、小波共に、文化宰相西園寺候招待の雨声会(候の命名した文士会で明治四十〜大正五年迄続く)のメンバーで当然のおつき合いもあったに違いない。
「春の海潮甘かれ」と小波がこよなく愛したこの小久保の浜は、かつて藤村と冬が偶然にも出会った地であり、藤村が生涯を文学志向に踏み切る舞台でもあった。森本貞子著『冬の家』は昭和六二年九月二五日、文芸春秋から発刊され、わが小波文庫にも謹呈の一書が届けられた。(昭和六三・二・一九房総新聞「ウイーク・スポット掲載」) 刈込 碩弥著「海には海の楽しみが」より

 以上、お話ししたことからわかってもらえると思いますが、大文豪島崎藤村と小久保との関わりは、研究者の間でも大変重要視されているわけです。
 地元ではどうでしょうか。私もそうですが、このような事情について殆ど知らないか、知っていてもそれ程関心をもたないというのが実態です。本当にもったいないことだと思います。
 私は今日、状況をお知らせしただけですが、皆さんがこのことに関心をもたれて、何かヒントになるこでもつかんでくれたらありがたいと思っています。千葉さんも定年になりまして、今は市原に住んでいます。仲間を集めては、研究会など開いているようです。

 「エビ博士フジナガ」と日本くるまえび研究所

 この研究所は高根の築港のすぐ南にありましたから、皆さんも憶えているでしょう。木造でしたから、やめたらじきに壊れてしまいましたね。
(※現栽培漁業センターのやや東) 地元の漁師は「エビ研」といっていましたね。
 昭和31年頃だったでしょうか、中年の紳士が家に食事に来ました。帰り際に急いで挨拶しますと、名刺をくれまして、それには「水産庁調査研究部長農学博士藤永元作」とありました。
 車エビの研究をやっているので「これからもちょいちよいお邪魔するよ」といって帰って行きました。気さくな人だな、というのが出会いの印象でした。
 藤永博士は日ロ漁業交渉にも、日本側代表として参加していました。 築港の側にあった油倉庫を憶えていますか。「日本車えび研究所」はその後ろあたりに建てられまして、エビ養殖の研究をやっていました。
 藤永博士が目指していたのは、食べてうまい車エビを誰でも気軽に買えるようにすることでした。そのためには人工養殖をしてどんどん増やせばよい。そうすれば値が下がって誰でも買える。これが博士の信念でした。
 昭和32年に、突貫工事で木造モルタル平家建の実験室とコンクリートの養殖池が出来上がって、主任の小花一雄さんともう一人助手が常駐していました。週末になると博士が来て陣頭指揮していたようです。
 実をいいますと、話はさかのぼりますが、昭和30年の夏から、木更津の厚生水産に一部屋借りて実験を始めていました。その次の年には旧富津町にバラックを建てて移っています。
 その後、もっと本格的な研究を進めるために、大規模な実験設備が必要になりまして、日水から出資してもらい、「日本車えび研究所」をこちらに建てたということです。こんな事情で、所長には日水の元社長の田村啓三さんが据えられました。
 藤永博士は随分悩まれたようです。この時の事情を、本のなかで「私はまよった。自分のプライベートの仕事としてやるか、水産庁の研究所のテーマとして取り上げるか、後者を選べば、椅子に物をいわせたことになる。私は前者についた……」と書いています。
 後になってから、博士の辿った道を知りまして、その偉大さに心を打たれました。ただの役人や学者ではないと思いましたね。
 博士は明治36年の生まれで、萩の出身です。旧制の松江高校から東大の水産学科へと進みましたが、大学にいた頃から東支那海のエビを追っかけていたという話です。卒業を待ちこがれていたお母さんは「大学まで出て、またエビかい」といってがっかりしたというエピソードがあります。
 エビの研究を条件にして、早鞆(はやとも)水産研究所というところに入り、天草で念願かなって車エビの研究を始めました。
 普通、エビは産卵期になると腹に卵を抱えていますね。ところが、車エビは普通のエビとちっがって、卵巣で卵が熟してきますと、いきなり海の中へ放出するのだそうです。だから、卵を親エビから直接採ることはできませんね。だからといって広い海から掬(すく)い上げるわけにもゆかず、とどのつまり、気長にエビを生け簀で飼って、産むまで待つという作戦に出たわけです。
 或る朝、生け簀に真白な粒がいっぱい浮かんでいるのを見まして、大急ぎで掬い上げて、顕微鏡でのぞいたら、車海老の卵だとわかったのです。クルマエビの人工的な産卵を目でたしかめた一瞬ということですね。
 その時の感動を、藤永博士は「これが世界ではじめて車エビが人工的に産卵された記念日に当る一九三三年七月二四日であった」と「クルマエビに憑かれて三〇年」という本に書いています。
クルマエビの人工養殖の技術的な説明は、理屈っぽくなるし、私も専門用語など忘れちゃったので、私の本を読んでみます。

 このエビの産卵から一匹前になるまでの成長段階は、ナウプリアス、ゾエア、ミシス、ポストラーバ期と脱皮変態する。人工飼育では、小さな水槽の時期からエビらしい姿になり、コンクリートのイケスで育てられるまでは、水温、水質の管理の外に、餌の選択が重要で、成長期に応じて適時適切に選んで与える。エビの脱皮成長と餌の研究は全く同時進行である。博士は誰でも買える安いクルマエビづくりを念願し、それには餌代を如何に安くあげるかにあるとして、たえず「餌の研究」に没頭したのである。
刈込 碩弥著「海には海の楽しみが」より

 藤永博士の研究仲間だった日高武雄さんという人が、博士の遺稿集を編集したときに、刊行の言葉を書いています。こんな内容です。

 「昭和五〜六年の学生時代から、学校にろくろく行かず、南支那海でエビを追いかけ、東大を出ると山口県秋穂でクルマエビの生態を完全に明らかにし、昭和一七年農学賞、翌十八年の学位に実り、昭和二四年運悪く民間第一号の水産庁調査研究部長に担ぎ出され、一〇年間その職に在り、行政家としても非凡な腕前を実証し、その仕事の合間を見て研究を続け、昭和三四年水産庁を辞めると高松市でクルマエビ養殖の企業化にふみ切った。
 彼はエビの研究をやるために生れて来たような人間であった。けれど人間としても立派であった。第一に怒らない。人の悪口を言わない。人から頼まれれば否といわない。借金があっても動じない。銭がなくても我々を連れて平気で飲屋に入るなど全く大人である」 刈込 碩弥著「海には海の楽しみが」より


 藤永博士は大変気さくな方でしたから、地元との関わりもいろいろとありました。
 大貫の鯛釣りの時期はだいたい5月から10月頃までですが、漁師はこの時季になると、餌の確保に苦労したものです。
 地元では手繰り網(※底引き網)で採った赤エビ(※方言はサルッツラ)を真餌として使っていましたが、時化(しけ)で手繰りが出なかったり、時期が過ぎて赤エビが不足した時には、「エビ研」を当てにしていました。「エビ研」の下に船をつけて、小花主任から分けて貰い、船頭も釣り客も大助かりでした。生餌に事欠くこともなく、ずいぶんと重宝していたようです。

 その頃.鷹司平通ご夫妻をこの「エビ研」にご案内したことがあります。ご存知と思いますが、鷹司夫人は昭和天皇の第三皇女(※孝宮和子内親王)ですね。神田万世橋に交通博物館というのがありまして、平通氏がここに勤務していた頃です。業務課長をやっていた山下一夫さんはじめ私どもとは、課ぐるみのお付き合いでした。
 10年くらいお付き合をいいただきましたが、鷹司氏は「ツカさん」の愛称で通っていました。釣りやコーラスの関係でよくおいでになりましたね。公式旅行ということだと警戒が厳重で、それが煩わしいのでしょうか、よく葉書や電話で連絡がありました。ご自分でワーゲンを運転して、いつも和子夫人同伴でしたね。
 同盟通信の記者をやっていた須藤宣之助さんは、戦後一時君商の教員をしていましたが、鷹司氏とは山の仲間だったそうです。須藤さんと私との関係がもとで、お付き合いが始まってという事情があります。
 和子夫人は元皇族(※1950年、結婚のため皇籍を離れました)でしたから、外出には警護が必要だったでしょうが、いつも警護なしで外出していたようです。
私は、鷹司平通氏にかかわるエピソードなどを本に書いてありますので、そこのところを読んでみます。

 或る時は房総西線のジーゼルカーの吊革につかまり、気軽にお見えになり、船頭とも古い帳場で車座になって田舎センベイをかじりながら釣談議に花を咲かせたが、「エビ研」ではあいにく博士不在の時で、小花主任が説明役をつとめた。

ツカさん:このエビの餌は何をやっていますか。
小花主任:アサリとアジをたたいてやっています。
ツカさん:それじゃ、このエビのアジはアッサリでしょう。

 
 なごやかな会話の中にも、すかさずこんなジョークが飛び出し、一同大笑い。こんな光景が、まるで昨日の事のように目に浮ぶ のである。  刈込 碩弥著「海には海の楽しみが」より

 藤永博士が日本橋にある「稲ぎく」という老舗のご主人を案内してきたことがあります。車エビがちょうど天ぷらサイズに育った頃でして、小花主任が持ち込んだエビを天ぷらに揚げて、みんなで試食しました。天然物と殆ど変わらない味を楽しませてもらいました。
 活きた車エビを持って帰られましたから、その晩はきっと「稲ぎく」さんが腕を振ったでしょう。
その時分、“海の畑を耕せ”ということで、「エビ研」の成果がテレビなどで紹介されました。「養殖車エビ発祥の地」だといって、地元もずいぶんと気をよくしていました。「エビ研」も、大貫であげた成果で車エビ養殖を企業化するめどをつかんだようです。
 藤永博士から相談をもちかけられたのはこの頃です。研究所拡張のことで、地主に話をつけてもらいたいということでした。
 その時の地主は東京の高平さんという人でしたが、私の末の弟が高平さんのお世話になっていた関係で、家ぐるみのおつき合いをしていました。
 早速、連絡をとって、博士と一緒に中野の高平さんを訪ねました。
 話は戻りますが、ポーツマス条約(※日露講和条約・1905年9月)の全権大使は有名な小村寿太郎でしたが、副全権は当時駐米公使をやっていた高平小五郎という人でした。
 私どもがおつき合いしていた高平蘭一さんは、この小五郎男爵の三男でしたが、華族のお坊ちやん扱いをいやがって、旧制の高等学校も中退し、家を飛び出して、市電の運転手からたたき上げたという変り種でした。いってみれば「我が道を往く」ということです。
 戦後、高平産業を興しました。戦災孤児を引きとって、仕事を身につけさせるという奇篤な方でした。なかなかできないことですね。生涯宮仕えはやらず、事業家で通した人です。
 その当時、大貫町の町長は斎藤行蔵さんがやっていましが、財政再建のために町有地を処分することになりまして、漁港南側の土地を高平さんに一括譲渡しました。たしか2万坪くらいあったと思います。
 当時、斎藤町長は君津郡南部八ヵ町村の合併を目指していましたが、話がまとまらないまま、君津ブロックと富津ブロックに分かれちゃいました。結局、こっちは大貫と佐貫が一緒になって大佐和町ができたということです。この町有地払下げも、合併前夜の一幕だったようです。

 話を戻しましょう。
 「エビ研」拡張のために、この高平さん名義の土地を一部使いたいということで、高平さんにお願いに伺ったわけですが、その土地が金融機関の担保になっていることがわかりまして、やむを得ず、「エビ研」は方向を転換することになりました。
瀬戸内では昔から製塩が盛んに行われていましたが、食塩の供給が過剰になりまして、いくつかの塩田が廃止になりました。「エビ研」はこれに目をつけたわけです。
藤永博士は、廃止になった高松の塩田を利用てエビを養殖する事業に乗り出しました。こんなわけで、残念ながら大貫海岸での車エビの養殖事業は実現しませんでした。

 本題をはなれますが、最後に藤永博士にまつわる人間味豊かなエピソードを紹介したいと思います。
 博士が学生の頃からよく呑みに通ったそうですが、銀座に「はせ川」という店がありました。その「はせ川」さんが人手不足で困っているので、何とかならないだろうかという話がありました。その時に白羽の矢を立てられたのが「しな」ちゃんです。「しな」ちゃんは、先生が私どもに来るときには、いつもルーム係をつとめていました。ほんとにいいこでした。
 「はせ川」というのは、戦前から文士の溜まり場でして、文学談議が絶えなかったそうです。
 「しな」ちやんの話は悪くいえば「引きぬき」ですが、なにしろいつもご贔屓いただいている博士からの話だし、「はせ川」の女将からも直接、私の家内に相談があったということでしたから、断るわけにもいかず、結局、「しな」ちやんを一時、「はせ川」に預けることになりました。
 「しな」ちやんのお父さんは私の父親の剣道仲間でしたが、館山航空隊の剣道師範をやめて、戦後こっちに引揚げていました。
 私どもで「しな」ちやんを預り、店の手伝いなどしていましたが、本当にいいこでした。気立がよく、センスもいいので、先生の目にとまったのだと思います。
 「しな」ちやんは「はせ川」さんに2年間お世話になった後、帰って来て結婚し、倖せに暮らしています。
 時々家へも顔を出して、愛嬌をふりまいていきます。話が銀座のことになると、藤永博士の話がよく出ます。博士はどちらかと云えば、居酒屋ムードが好きだったとか、お互い入れ歯になったらキスしようなどと冗談を飛ばしながら盃を重ねていたとか、話が盛り上がります。
 車エビ一筋にかけた科学者でも、時には酒でヨタをとばしてストレス解消をやったり、新しい発想を練ったりしていたのだと思います。
 時間になりましたからこれで終わりにします。

質疑応答
白 井 銀座の「はせ川」にいた女性は今はどうしていますか。

講 師 結婚して篠部あたりで元気でやっています。
  だいごろ(※屋号・浜町)の下駄屋さんの近くに、相澤さんという 剣道の師匠がいましたが、うちの親父はその人の兄弟弟子でし た。「しな」ちゃんの父親です。

白 井  時間が迫ってきましたので、質問などは懇親会でお願いします。 「山口おじさんとハマヒルガオ」につきましては次回まわしとい うことにします。あわただしい進行で申し訳ありませんが、今 日の勉強会はこれで終わります。


             制作 グリーンネットふっつ

                録音 鈴木 紀靖
                編集 平野 正巳

 

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