大佐和の遊漁と避暑客
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大佐和の歴史と文化を学ぶ会 U
  −刈込硯弥先生を囲んで−


    主 催  グリーンネットふっつ

 

  日 時  平成16年10月2日(土) 会 場 さざ波館会議室

   その2  大佐和の遊漁と避暑客

      講 師  刈込硯弥先生


 京浜地方から釣り客や避暑客が大勢きた頃の都市との人的交流や地域文化や地域経済への波及効果など、当時新聞記者をしていた経験から郷土の産業や観光資源等について拝聴しました。


開会の言葉

 藤崎 宇一会員

 みなさん、本日はご苦労様でございます。ただいまより、「第二回大佐和の歴史と文化を学ぶ会」を開催します。

   挨拶 白井 敏夫代表


 記録的な猛暑もようやく終わり、秋風が心地よい季節になりました。
 「グリーンネットふっつ」主催の「大佐和の歴史と文化を学ぶ会」の第一回を3月に行いましたが、この度、第二回を開催する運びとなりました。今回も多くの方々にご参加頂き、主催者としてこの上ない喜びです。
 本日の学習会も前回同様、文字通り「わがまちの生き字引」である刈込碩弥先生に講師をお願いいたしましたところ、快くお引き受け下さいました。
 前回の学習会では、敗戦による精神的痛手、極度の物資不足、民主主義というカルチャーショックなどにより、殆ど放心状態であった当時の人々に、生きる指針と活力を与えたいろいろな活動について、実践者の立場でお話くださいました。
 町長の公選化、文化を政治の根源に据えることなどを主張して「潮会」を立ち上げた経過、理想とその実現のために燃やした若者たちの情熱、驚くべきエネルギーなど感銘深く拝聴しました。また、地域文化の発展に大きな足跡を残した寄留中の文化人などのことを興味深くうかがうことができました。
 今回はレジュメにありますように、大貫町と京浜地方との人的交流や都市文化や情報の流入、その媒体であった釣り客や避暑客の実態について学ばせていただきたいと思います。また、地域文化や経済への波及効果などについてもお聞かせいただけたら幸いです。更に、消失に歯止めがかからない郷土の伝統文化や観光資源、悪化の一途をたどる自然環境、漁業資源の枯渇、人情の希薄化など山積する課題を抱えて、「当地域の観光事業はどうあるべきか」についてご意見を伺えたらと期待しています。
 今日は、先生に講演をいただいた後、質疑応答の時間を30分ほど予定しております。時間については若干の余裕を見込んでありますので、有益な時間をお過ごしください。ご紹介が遅れましたが、地元仲町区の皆様、青少年相談委員の渡辺ひでみさん、会員の中にも教え子が沢山いる三浦淑子さん、民生委員の高島貴美子さん、富津市役所の長谷川友宏さんなど会員以外からも多くの方々のご参加を頂き、心強い限りです。心より御礼申し上げます。
 なお、研修会終了後、別室で懇親会を予定しております。心ゆくまで懇親を深めていただきたいと思います。では、刈込先生、お願いします。


白井敏夫代表挨拶


 講演 刈込碩弥先生

  「大佐和の遊漁と避暑客」

    
 今回は2回目ということでお集まりいただいたわけですが、果たしてみなさんにご満足いただけるような話になるかどうか自信ありません。
 私は大正7年の11月生まれです。ですから、みなさんの知らない時代の事情や出来事について多少お話できるかと思います。例えば大正12年の関東大震災のことなど、子供心にも、かなりははっきりと憶えています。そういうことで、話を進めてゆきたいと思います。よろしくお願いします。

 避暑客のこと

 関東大震災のとき、私は満五歳でした。私のおやじは若いころ、鉄砲をやっておりました。その鉄砲仲間にじゅうべえさん(*屋号)の人がおりました。今の中学校の裏あたりです。そこに用事があって、あの日、私も犬と一緒について行ったのですが、帰ってきたらいきなりガタガタと始まったのです。
 神明様の本殿がふわっとつぶれる様子は、今でも目に浮かぶほどはっきりと憶えています。 私のところでは藁葺きの母屋の方が古かったのですが、傾いただけで倒れませんでした。新しく建てた離れはそっくりひっくりかえってしまいました。
 地震がおさまった後、「朝鮮人が攻めてくる」というデマが飛びました。子ども心には、地震よりもこっちの方が怖かったですね。その時は、本当にそういうことがあったかどうか分かりませんでしたが、後になって、デマだということを知りました。
 世間の動揺はかなり強かったようです。この町でも、在郷軍人や消防団、青年団などが夜警に出ていました。私の身内でも、夕方になると男たちが出かけて行ったのを憶えています。
 その頃、すでに避暑客が来ていました。殆どの避暑客は夏が終わる頃には引き上げていたのですが、たまたま、太田に避暑客が残っていまして、あの震災にぶつかってしまいました。夜警団は土地っ子でないその人を「ちょっと風采が変わっている」ということで、随分と警戒していたようです。近所もこの話題でもちきりでした。
 こんなことから、大貫の避暑客は大正12年頃にはすでに来ていたことがわかります。

昭和初期の臨海学校児童
さざ波旅館前

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 避暑客の話から始めましょう。
 その頃、4月か5月になると、日曜日にはきまって東京の人たちがやって来て、「この夏はどこの家を借りようか」と貸間や貸家を探していました。新規に借りる家をきめる人もいれば、去年お世話になった家に今年もという人もいました。
 大貫の学校は、田植え休み(*農繁期休業・今の田植えは4月ですが、当時は6月上旬でした。)がある関係で、夏休みは8月1日からでしたが、東京では7月21日から夏休みです。大学生などは適当に休みをつくって、もっと早くから来ていました。  といったわけで、家を決める段階からまちは活気づきます。
 避暑客たちは、話がまとまってしばらくするとやって来るわけですが、持ってくるのは身の回りのものを少しばかり、あとは家主への土産位。殆ど空身でした。 米や味噌醤油、野菜や魚など食料品はいうに及ばず炭や薪、履き物や麦藁帽など生活雑貨にいたるまで殆どが現地調達でした。 新鮮な魚は避暑客の目当てのひとつです。地元漁師も随分と潤ったにちがいありません。 当時、岩瀬や新舞子の海岸では地引き網漁が盛んでした。東京のお客さんたちも一緒になって網を引き、採れたての魚を土産にもらって帰るといったようなことで、お互い、随分と楽しい夏を過ごしたものです。そんなわけで、家主だけでなく地元の商人や漁師、農家などは「夏が来れば」といってあてにしていました。家賃も、廊下や土間も含めて計算していました。その頃、貸間貸家組合というのがありまして、紹介や契約の面倒を見ていました。「奥の八畳間を一夏貸す」とか、「夏なら物置に寝ても風邪をひくことはないから一軒そっくり貸す」とかで、どこの家でもかなりまとまった収入になったようです。
 「来年来る頃には風呂場を直しておきましょう」とか「畳はきれいにしておきます」とかいうことで、海岸一帯の家並みは年々整って行きました。
 しかし、こんな状況も、昭和10年代になると次第に変わってきます。
 きな臭い時勢とともに、避暑客の足は遠のき、大貫や佐貫でも若い人たちの応召が増え始めました。避暑客どころではなくなったのです。地元に大きな経済効果をもたらした避暑客ブームも、戦争によって頓挫したということです。
 あの戦がなくて、避暑客景気が続いたら、大貫、佐貫の様子は、今とは随分変わっていたのではないかと思うことが時々あります。

 平貝のこと

(*正式名称はたいらぎ。国内の主産地は瀬戸内海ですが、最近は韓国 や中国北東沿岸部からの輸入物も多く出回っているそうです)
 平貝は富津の名産でしたが、戦争で若い人達がどんどん兵隊にとられ、肝心の貝を採る「もぐり」(*潜水夫)がいなくなりました。
 平貝を採らないものだから海は平貝であふれ、大貫沖まで下ってきました。
 終戦後、働き手の若い人たちが続々と復員して来ました。食糧不足もあって、富津は平貝景気にわきました。うちの前の川などは、平貝の貝殻の捨て場になっていまして、潮が引いても危なくて歩けないような状態でした。
 私が外地勤務(*碩弥先生は昭和16年から19年まで朝鮮の学校に勤務されていたそうです)から帰った2、3年後には、平貝が俵やかます(*稲藁を編んで作った袋で、俵よりも簡単に作れたし、背負いやすい形状でした)に入れられて、1俵とか2俵といった単位で取引されていました。暮や正月には、どこの家の台所にも平貝の俵が積まれていました。皆さんの中にも憶えている方がいるでしょう。
 いま、富津の人たちは「乱獲ではないか」「復活しそうにない」といっております。

 魚はいた

 戦前、大貫にはいろいろな漁法がありました。魚を一匹一匹釣るこづり(*一本釣り)、1本の糸に枝針を沢山つけて、海底に仕掛けるごみな(*延べ縄)、底引き漁法のてぐり(*打瀬網)、かなりの資本を要するあぐり網などが行われていました。
 岩瀬川河口の船溜りには、こづり船が犇めくように繋留されていました。網で採るのとちがって、一本釣り漁では魚に傷が付かないので鮮度が保たれ高値で売れます。活魚としても出荷できます。
 ごみなでは鱚やめごちなど比較的小型の魚を採っていましたが、穴子などを対象魚とする船(*あなごな)もありました。
 てぐりは夕方出て、一晩中網を引きつづける漁法で、かなりきつい労働を強いられます。春から秋の初め頃までは、主に車海老をねらいます。
 車海老は東京方面ではかなりの高値が付いたので、比較的資本のかかる漁法ですが、従事するものが多かったようです。寒い季節になると車海老は捕れなくなるので、日中に操業して魚を捕っていました。これがひるてぐりです。
 こづりとてぐりは今でも行われていますが、最近、「漁師は俺一代で仕舞いだよ」という声が私の耳にも入ってきます。
 先祖代々海で暮らしてきた漁師から、そういう言葉が出てくるのは、東京湾の魚が減っているためだと思います。昔のように採れれば、今になって止めたいなどというは筈はありません。東京湾の魚が減っていることを一番身近に感じているのは漁師です。
 半年くらい前、毎日新聞が東京湾と三河湾が一番ダメになっている。何とか回復しようということで、水産庁が対策を練っていると報じていました。
 回復の方向に向かってくれればありがたいのですが、何しろ、まだ手をつけ始めたばかりという段階ですからね。
 あぐり網は、海面付近で網を引いて鰯や細魚などを採る規模の大きな漁法です。うちの先祖がやっていたのは明治の頃ですから、労働力も豊富だったのでしょう。結構採れたようです。
 小駒先生(*仲町の勘兵衛さん)のところもあぐりをやっていました。神明様のそばのいっちむさん(*屋号)も網元をやっていたそうです。
 当時は小久保でも人を使って、そんな商売が成り立っていたのですが、いまはもうはありません。あぐりはその後、船橋と横須賀に残っていると聞きましたが、今はどうでしょうか?

岩瀬川の船遊び(昭和9年)

 

 釣り客のこと

 岩瀬の女たちはもっぱら農作業に、男たちは技術を生かした一本釣りに精を出していました。戦後も、岩瀬川の両岸には一本釣りの船が80杯くらい並んでいました。 大貫の釣り船(*お客を乗せて釣りをさせる、いわゆる遊漁のこと)について、その始まりが何時であったのか確かなことはわかりませんが、避暑客の中から「俺たちも一緒に乗せてくれないか」とか「夏が終わったら乗せてくれ」とか「夏の1ヶ月の間乗せてくれないか」といったような声が掛かりはじめ、その後、避暑客が増えるにつれて、釣り船が職業として定着しはじめたようです。岩瀬の一本釣漁の転換です。 戦前に始まった大貫の釣り船は、戦争による中休みはありましたが、戦後しばらくすると、スポーツ紙などが釣りだよりを掲載し始めたのが追い風となって、二度目のブームを迎えます。大貫の釣り情報もよく載りました。私どもがよくお付き合いしていたのは毎日新聞です。戦前は、同じ資本でしたが、大阪が毎日新聞、東京は東京日々新聞となっていました。戦争になってから一本化して毎日新聞となったのです。特に、毎日新聞は釣りの記事を盛んに載せていました。なかでも東京湾の釣りには大変な力の入れようで、地元の漁師も随分と協力しました。
 新聞社というのは広告を出してくれる会社を大事にします。「大貫で釣りを楽しんでもらおう」というようなことで、私どものところにもその関係の団体がよく来ました。
 私どもの方でも、「賞品を出して欲しい」とか、商売上ありがたいことだから、「船頭に賞状を出してもらいたい」などとお願いして、いろいろとお世話になった経緯があります。新聞社の方では、釣り客に半天を着せるなどして宣伝をしていました。戦後はゴルフがはやり、若い人達がそちらに流れて釣り客が減るといった時期もありました。
 餌の確保は船頭の大事な役目で、苦労も多かったようです。
 めいくの頃からひととき、岩瀬の漁師は地元の海だけではなく、房州の方まで鯛釣りに出かけることもありました。家を一軒借りて、そこで自炊をしたり、女将さんたちが汽車で釣り餌を届けるというようなこともありました。時化のときなど、地元安房の漁師との融和のために、大貫の釣り方や仕掛けの作り方などを教えてたりして、結構仲良く、トラブルもなく順調にいったようです。「向こうで世話になるから、鯛釣りを仕込んでやったよ」などという話もよく耳にしました。

マダイがよく釣れた

 

  秋は鱸がよく釣れた

 



 埋め立てのこと

 たいていの魚は岸に近い藻場で産卵します。高度成長期に加速した東京湾の埋め立て事業は、魚が減ったことと無関係ではないと思います。
 埋め立ての権限は知事がもっています。知事のはんこひとつで決まるのです。内湾の埋め立てを本格的に始めたのは友納さんですね。あの人は厚生官僚の出ですが、千葉県の財政が思わしくないということで、大胆な埋め立てをやったのですが、いま考えてみますと、少々やりすぎたのではないかと思います。埋め立ての恩恵を受けた人たちは、ありがたがっているかも知れませんが、結果的にはいいことばかりではなかったようです。人間が海を勝手にいじることに問題があるのです。自然のバランスを崩すことで、いろんな不都合が出てくるわけです。産卵場所の減少、海水の汚濁など水産資源に深刻な問題を残しました。自然はそれほど簡単には人の言うことをきかないようです。
 最初の計画では長浦までだったのが、ずるずると富津沖までやってしまいました。一坪増やせば税金がいくら入るといったお役人的発想で、とうとう富津沖まできてしまった。埋め立てた土地は高値で売れるという目論見は外れ、富津の場合など、未だに殆どが空き地のままだそうですね。自然を思い通りにしようという考え方に問題があるんです。このことは、海岸の埋め立てに限ったことではないと思いますがね。
 話は避暑客のことに戻りますが、貸家貸間、避暑客などのことについて、学者が論文をだしております。当時、女子師範の尾崎虎四郎という先生が、房総内湾の避暑客の実際の動きについて、一軒一軒回って調べた資料を私はもっています。
 論文は、房総の避暑客の推移の問題について書かれ、時代の風潮を物語る貴重な資料となっています。

 別荘のこと

 毎年、あちこち借りてまわるのは面倒だというので、別荘を建て、自分の都合で自由に行き来する避暑客もでてきました。冬の間の管理はたいてい地元の人たちに頼んでいました。別荘は、大貫では千種新田、佐貫では新舞子に集中していました。戦争中には、この別荘に疎開し、かなりの人たちが常住していました。戦後もそのまま住み続けて、東京方面へそこから通う人もいました。大部分が木造建築ですから、今では建物の寿命がきて、その殆どが廃屋になっています。「貸間貸家から別荘へ」という動きもあったということです。

 こんな人も

 大貫にも結構有名人が来ていました。
 「トッカピン」、栄養剤でしょうか?。あれを発明した戸塚さんという方が、いまの大貫中学の上に別荘を建てて住んでいました。戸塚さんのご長男は眼科医のオーソリティーで、東京でも話題になった人です。
 尾崎さん(*尾崎製作所)や黒田さん(*黒田精工)にしても「大貫は、海のもの、山のものに恵まれている」ということで、こちらに工場を建てました。食糧難の時代、「口の問題」が工場をもってくるきっかけになったのです。
 前回、お話ししました米田富士雄さんも企業ではありませんが、当時の寄留者のひとりです。

 東京のおじさん、大貫のおばちゃん

 いまの民宿とはちがって、避暑客や釣り客と家主や地域の人たちとの間には、親戚づきあいのようなところがありました。
 倅が東京の会社に就職したとか、娘が東京の学校へ入ったなどということで、身元保証人になってもらったり、住む家の世話をしてもらったりといったことがごく普通にありました。職探しや縁談などでお世話になったり、お世話をしたりといったことも耳にしています。ときには、先方からお手伝いさんの世話を頼まれるようなこともありました。こんなわけで、都会と田舎の実に気持ちよい交流があったのです。
 今の民宿は、便利ではありましょうが、経済的な関係しかありませんね。人情を大切にする暖かい関係は、特別な場合を除けば殆ど期待できないと思います。
 これからの時代、あの頃の人間関係を回復するにはどうすればよいのでしょう。経済事情、交通事情、それに世相など随分と変わりましたからね。なかなか難しいと思いますよ。避暑客や釣り客との関係だけではなく、日本人一般の人間関係がすっかり変わりました。毎日のように人が殺されたり、常識では考えられないようなことが新聞にでていますね。人と人との関係が、どこか、おおもとのところで狂ってしまったようです。

 大貫の漁業は?

 さっき、配られていた写真の中に、釣れた魚を写したのがありますね。
 魚がいっぱい並んだ写真、全部真鯛ですよ。今時考えられますか、こんなことが。もう一枚は鱸です。毎年十一月から十二月にかけてはらぶと鱸がよく釣れました。腹にいっぱい子どもをもった鱸です。
 当時、同じような釣りをやっていたのは、このあたりでは大貫、湊、竹岡ですが、竹岡の船頭は、「今さら何を考えてもしょうがない。俺達はこれを守る」といって今でもやっていますね。若い後継者も結構いるそうです。
 こちらは駄目ですね。比較的交通の便がよいし、勤め口もあります。 事情がちがうのかも知れませんが、「漁師は俺一代だ」という声が盛んにきかれます。なんとも寂しいことですね。

 まとまらない話でしたがこれで終わらせていただきます。


 質疑応答


藤崎
 先ほど1本釣りについてうかがいましたが、一本釣りの漁師は櫓を漕ぎながら3本の竿を同時に操り、どの竿に食っているか分かると聞いたことがありますが。

講師
 こづりの漁師は3本位もっていましたね。素人は1本でしたが。
 これは昔、漁師が使っていた天然のテグスです。結び目はいくつあっても気にしません。

天然テグスの原料は蚕だった

 これは大貫の漁師が使っていた道具入れです。三木吉太郎さんが丹精を込めて作ったものです。網の修理をする道具などを入れて、腰にぶら下げていました。これには「流水は先を争わず」と書いてあります。これを座右の銘としていたのでしょうね。誰か先輩からこのような言葉を教わったのだと思います。
 これはテグスを細くするのに使う道具です。小さな穴がたくさんあいているでしょう。穴にテグスを通して引っ張り、糸の太さを決めます。竹ひご引きのようなものです。

腰に下げた道具入れ

 こちらは錘の鋳型です。錘をつくるために、砥石に穴を掘って作ります。溶かした鉛を流し込んで、いろんな重さや形の錘を鋳造していました。今時、こんなことをやる人はいないでしょうね。釣り師というのは、自分で何もかもやってみたいのです。

錘を造る鋳型

 質疑  

渡辺

 天然のテグスは何から出来ているのですか?

講師
 虫が作る糸です。蚕みたいなものでしょうね。

平野
 うちのじいさんが、浪曲師の玉川勝太郎が来た話をしていましたが、釣り客の中には有名人もいたでしょうね。

講師
 玉川勝太郎さんも来ていました。川向に家を借りていましたね。うちのおふくろも浴衣を貰って得意になって着ていましたよ。

平野
 こづりの漁師が、船を造ってもらい、お客の都合を優先し、あとは自由に使っていたという話を聞いたことがありますが?

講師
 うっかりして、大事なことを落としていました。その通りです。
 当時の船は木造船でした。船を海から上げっぱなしだと駄目になってしまいます。毎日使って、その都度上げるようにして使えば長持ちします。
 そこで、「私が行ったとき、必ず船を出してくれれば普段は商売に使っていいよ。」という条件で船を造らせていました。
 「5年も10年も大貫に通うのだから、こちらの都合最優先という条件で、船を造ってやる方が便利」といったわけで、気に入った船頭に船を造らせていました。
 さっき、岩瀬のこづり船は80杯位あったといいましたが、そのうちの半分ぐらいは、いわゆる旦那持ちの船でした。釣り船の盛んな時代、そういうことがありました。
 ですから、先ほどもお話ししたように、釣り客と船頭の間でも親密で気持ちのいい付き合いができたわけです。

平野
 子供の頃、祖父が新聞社の人に貰ったという本を見せてくれたことがあります。その本に載っていた奇妙な形の物体が、プラネタリュームだとわかったのはずっと後のことです。田舎の漁師とプラネタリューム。奇妙な取り合わせだと思っていましたが、漁師と贔屓の釣り客との付き合いがわかってみれば、なるほどと頷けます。

講師
 当事、日本でプラネタリュームをもっていたのは、東日時代の毎日新聞だけで、「東日天文館」というのが有楽町にありました。世界一周飛行のとき、うちの親父は鹿野山で護摩を炊いてもらい、成功祈願のお札を持って毎日新聞へ押しかけたことがあります。大貫の船頭がこういうことをやってくれたと、新聞に出ました。

白井
 大佐和の観光事業は、将来どうあるべきかについて、先生のお考えをお聞かせいただけませんか。富津市がよくなるためには、観光客が二度三度と足を運ぶような目玉が必要と思いますがいかがでしょうか。

講師
 なかなか妙案は浮かばないですね。釣り船などはいいと思いますが、年期入りの船頭がいなければどうしようもないですね。大貫、上総湊、竹岡の1本づりは独特のものです、市がこれを文化財に指定することなど、話を出そうかと思っています。何しろ人がいなくなれば、釣り方まで消えてしまいますからね。いまはリールに押されていますが、本当に好きな人はあれでは満足しない。やはり手の感覚ですよ。最近は、船頭まで「客が使うから俺も使ってみたよ」というような時代です。

白井
 最後に平野会員から資料写真についてコメントがあります。

平野
 大佐和まちづくり懇話会というのがありまして、写真展をやっていますが、作品の他に、地域の昔の写真なども展示しています。 しかし、これらの写真は年々消失しています。今のうちに収集、修正して、CDなどの形で保存したいと考え、当「グリーンネットふっつ」でも活動の一環として取り組んでいます。皆さんにご提供又はご紹介いただければありがたいと思います。

閉会の言葉

藤崎 
 刈込先生、ありがとうございました。今日の勉強会はこれで終了させていただきます。みなさん、どうもご苦労様でした。なお、懇親会に参加される方は、別室に移動してください。 

(※は編者注)

制作 グリーンネットふっつ
担当 録音 鈴木 紀靖会員
    編集 平野 正巳会員


[参考資料]

アオギスがいた海
                 (浦安市郷土博物館 HPより)
 アオギスはかつて東京湾をはじめ、三河湾(三重県)、和歌浦(和歌山県)、吉野川河口(徳島県)、別府湾・豊前海(大分県)、宇部市厚東川河口(山口県)、北九州市沿岸(福岡県)、吹上浜(鹿児島県)などに生息していたキス科最大の魚類である。とくに浦安を中心とした東京湾沿岸の干潟・浅海域は、初夏、脚立を下ろして釣るアオギス脚立釣りの本場であり、アオギスが繁殖する豊かな海域であった。しかし昭和40年代、アオギスの姿は東京湾各地で急速に消え、昭和50〜51年の稲毛浜における採集記録を最後に、その後は確認されていない。

 そして平成7年、水産庁が編集した『日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料(U)』で、「絶滅の危機に瀕している種・亜種」である「絶滅危惧種」の一つにあげられ、平成12年に刊行された千葉県のレッドデータブックでは、「絶滅したと推定される」と記され、東京湾での生存は絶望視されている。全国的にみても、近年記録があるのは別府湾・豊前海周辺、厚東川河口、吹上浜だけで、とくにまとまった群が存在するのは、現在、豊前海のみとなっている。

 この絶滅寸前の魚は、古くから江戸の釣り人に愛され、様々な文献に記されてきた。脚立釣りは江戸前の初夏の風物詩として、多くの人々を魅了した。また、昭和55年頃には当時盛り上がっていた入浜権運動の流れから派生した形で「アオギスを天然記念物に」との運動も進められた。しかし、この運動はアオギスの基礎研究が進んでいない等の理由から、とぎれてしまっている。

 その後、平成5年から九州大学においてアオギスの基礎研究が始められ、平成7年から千葉県御宿町にある財団法人海洋生物環境研究所中央研究所で繁殖研究が開始した。そして平成8年アオギスの人工孵化に成功し、その後も繁殖研究が進められている。

 浦安市郷土博物館では、この人工孵化されたアオギスを譲り受け、飼育・研究することになった記念として、アオギスと人間の関わりを考え、アオギスの棲める海とはどのような海なのかを考える展示会を開催することにした。

 この消えゆく小さな「いのち」から、私たちは何を感じ、何を学ぶのであろうか。小さな「いのち」が消えていくとき、われわれ人類も何か非常に大事な、本当に大事な何かを失っていると思うのだが。

 
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