戦後「潮会」発足のころ
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大佐和の歴史と文化を学ぶ会 T


−刈込碩弥先生を囲んで−


主 催 グリーンネットふっつ

 終戦後大貫の町長公選化運動、文化を政治の根源に据えることなど主張して「潮会」を立ち上げた経過、理想とその実現のために燃やした当時の大貫の若者たちの情熱など感銘深く拝聴しました。

   その1 戦後大貫の文化運動

   戦後「潮会」発足のころ

 講 師 刈込 碩弥 先生
 日 時 平成16年3月20日(日) 午後4時〜
 場 所 富津市小久保 さざ波館会議室 (※は編

   

講演目次

  「潮会」発足の頃

  教員時代

  町長は公選にすべきだ

  文化運動の展開へ

  米田富士雄さん

  黒田乙吉さん

  堀四志雄さん

  

  質疑

 


 グリーンネットふっつ代表 白井敏夫挨拶

 みなさんこんにちは。つい先日、桜の開花宣言が出ましたが、今日東京の気温は2度、日本海側では雪が降っているようです。このような寒さにもかかわらず、よくお出で下さいました。
 今回、「グリーンネットふっつ」では初めての研修事業として、「大佐和の文化と歴史を学ぶ会 −刈込碩弥先生を囲んで−」を計画いたしました。斎藤勝昭会員の働きかけで、地元区の方々多数のご出席を頂き、感謝いたしております。また、青少年相談員の渡辺ひでみさん、下岩入の田村さん、ロータリーの高島さん、寺谷の鈴木造園の社長さんもお見えです。声をおかけしたところ、足下の悪い中、お出で下さり、本当にありがとうございます。
 はじめに、少し時間を頂いて、この「学ぶ会」を催すことになった経緯を話させていただきます。この旅館にはラジウム鉱泉がありまして、何年か前からこちらのキャビンで、本日の講師である刈込碩弥先生に、お茶をいただきながらいろいろな話をうかがっておりました。私の高校時代の恩師でありました、英語の須藤先生、体育の森田先生などのお話を伺っているなかで、今日の主題である大佐和の歴史や文化にまで言及なされました。うかがっているうちに、これは私だけが独占する内容ではない、広く多くの方々にも聞いていただく方がよいと思いました。
 大佐和の文化活動を実践されたときの苦労話、激動の昭和史に記録された、数々のエピソードや世相など、多くの方々に知っていただくのがよいと考えまして、「グリーンネットふっつ」の役員会に提案し、また、先生のご同意を頂き、本日の勉強会が計画された次第です。
 本日は、文化活動の先べんをつけた「潮会」のメンバーでありました仲町区の平野由之さんも参加されています。 今日は約1時間、先生からお話をいただいたあと、質問時間を30分程設けております。 なお、ご案内のようにこの会の終了後、別室で懇親会を予定しておりますので、ゆっくりご歓談いただきたいと思っています。  みなさんのお手元に、本日のレジュメと資料が配置されていると思いますが、これは「グリーンネットふっつ」の平野事務局長と私が準備いたしました。お役に立てたら幸せです。


 

 講演  講師 刈込 碩弥先生


 「潮会」発足の頃


 私が朝鮮に行ったのは昭和16年の4月です。みなさんもご承知と思いますが、昭和16年4月、小学校が国民学校へと制度が変わるときでした。 そのために文部省の方から、40名くらいを朝鮮、満州、支那、南洋など、日本の息のかかった場所へばらまくということで、たまたま私もその選に入りまして、出かけたのですが、3年勤務で交代ということでした。
 うちのおやじも、周りからどんどん若い者が招集されているのに、うちの倅だけのんびりしていたのでは悪いと思ったのか「行ってもいいよ。」ということでした。
 大貫から平壌行きの切符を買いましたが、あの頃、植民地行きの交通運賃は5割引でした。その後負け戦になりましたが、私は日本人学校に奉職していた関係上、帰国した後、日本全国に知人が広がっているということで、今日に至るまで、ずいぶん重宝しています。仲間には中国や蒙古に回された人もいます。この町でも、2〜3年先輩で八木下さん(※仲荒区・奥様はご健在)という方が南洋の方へ派遣されましたが、残念ながら戦死され、本当にお気の毒だったと思います。

 教員時代   

 昭和19年の4月に帰ってきましたら、木更津の小学校へ勤務してくれと言うことでした。その時の校長は、保田の出身で福原実という方でした。今で言えば出張所長と言う立場の人で、「役人を終わって木更津へ出るから、俺の仕事を手伝ってくれ。」といわれて行ったのです。たまたまそのとき、木更津が研究当番校で、教頭研究会というのがありました。校長から「外地帰りだからおまえ授業をやってくれないか。」といわれ、逃げるわけにもいかないので、やったのですが、それが「自転車の分解とか組み立て」をやる授業だったのです。素人では判らないので、たまたま小学校のそば(※方言・ごく近くの意)の自転車屋へ相談に行ったら、親切に教えてくれました。しかも研究授業の当日もわざわざ来て「手伝いますよ。」と助け船を出してくれました。自分の手に負えないことは、専門家にやって貰えば大助かりだし、教わる子供たちも、その方がためになるということで、大いに感謝しながら授業を終わったことを覚えています。
 ところが、後の研究会でこっぴどくやられました。「今時、自由教育とは何事だ。時代錯誤も甚だしい。」さんざん批判されましたが、「見解の相違がある。」と軽く流していました。夕方になって、教頭が「宿直がいないので代わってくれないか。」と言ってきたので、引き受けたのですが、その晩、旅の疲れかどうか分かりませんが、とにかく39度の熱を出しました。大騒ぎをやって夜の明けるのを待ち、保健所へ行ったら、「肺浸潤」と診断され1年間養生した方がいいと言われ、学校は休職することになりました。今は、胸部疾患は3年くらい休職があるそうですが、あのころの休職は1年しかなかったので、1年以内に復職すれば問題ないのですが、研究授業でさんざん批判されたので、学校に戻るつもりはありませんでした。その後、休み癖がついて自然退職という形で、づるづると退職になってしまいました。家でぶらぶらしているうち、昭和20年8月の終戦を迎えました。

 「町長は公選にすべきだ」

 当時の大貫町長は十郎兵さん(※屋号・上岩入)でした。茂原の農業学校を出て、農協の会長を勤めた後、町長になったのですが、終戦を機に辞表を出し、空席になっていました。その頃、町長は今と違って、有権者の投票で選ぶのではなく、町議会で選出することになっていました。浅井 一郎さんというアメリカ帰りで、英語のできる人がおりまして、議会はその方に傾いているようでした。
 「町長は公選にすべきだ」と、私や青年団長の堀四郎さん(※堀薬店)、復員してきた人たち、岩根の航空敞にいた榎本与七郎君(※岩瀬)、その後NHKで名を上げた堀四志雄さん(※東大生)などで話し合い、「そうだ公選にすべきだ」と盛り上がり、「ひとつ旗を揚げるか。」ということになりまして、町の電柱にポスターを貼ったりしました。それが町の長老たちの耳に入り、「若い連中に不穏な動きがある。」と引っ張り出されて、やり合ったのですが、今日も見えておられますが、当時旧制四高生であった平野由之君も仲間に入り、復員者や学生達が集まると調子が高くなって、やれやれ式でいたのです。そのとき、浅井さんの名前も出ていたのですが、特に浅井さんとの付き合いはなく、浅井さんはだめだというわけではないんだけれども、「デモクラシーの社会になるのだから、町長は公選にすべきである。」、「町民の意見を聞け。」の一本やりでやったのですが、とうとう長老たちに抑え込まれ、結局、騒いだだけで、引っ込んでしまいました。
 マスコミは、「首長は公選でやるべきだ。」と筋論ばかり言ったわけでして、たいして力にはなりませんでした。長老たちは、「誰か黒幕がいるのではないか。」「その黒幕に踊らされているのではないか。」という考え方が強いようでした。

 文化運動の展開へ

 結局、「こんなことで喧嘩していてもしょうがない。」ということで、やめてしまったわけです。その後、一年たっても二年たっても、町の長老たちは、居もしない黒幕を白状させようと、しつこく動いているようでした。若い連中は、そんなことにはこだわらず、けじめをつけてあっさりと終わりにしたのですが、学生たちは、頼りにならない先輩だと思ったに違いありません。そのことがちょっと気になりました。
 そういう過程を経て、なにしろ短兵急に事を起こしてもだめだという考えが出まして、なんとしても文化運動からたたき上げていくしかない。 焦ってもだめだ、町民大会が不発に終わった経験から文化運動を展開し、地道にやるしかないということになりました。
 こういういきさつで生まれたのが「潮会」というわけです。 終戦直後は復員者、疎開者、寄留中の文化人など、いろいろなタイプの人材がこの町に住んでいました。
 お手元に配った資料は、このような機運の中で、堀 四志雄さんが中心となって起草した呼びかけの文章です。「政治が文化の眼を、文化が政治の力を」という考え方です。これからの政治は文化的眼力をもたなければいけない。文化が政治の根源力とならなければならない。というわけです。
 堀四志雄さんは当時、東大の有名な哲学者、和辻哲郎教授の研究室に在籍中で、教授から強い期待をかけられ、研究室に残れと言われていたそうですが、結局、飛び出してしまったのだそうです。

 政治が文化の眼を、文化が政治の力を
 

 青年旋風はついに不発に終わったが、この盛り上がりを地道に積み上げ、じっくり根を張ろう、それには文化運動だ。町民の心の中に働きかけよう。その時、突然、「政治が文化の眼を、文化が政治の力を」と叫んだ者がある。それは堀 四志雄さんです。しばし沈黙の後、一斉に拍手がわいた。これこそ潮会誕生の一瞬であった。会のスローガンは、この言葉に決まった。創立の趣意書はみんなの合作で壁新聞となり、各所に張られた。(壁新聞に張られたのは、次の文章です)

 美しき文化の集い−潮会の誕生−創立趣意書

 
従来、大貫町には、権力や利益を中心とする団体はあったが、人間にとって一番大切な文化を中心とする団体が存在したであろうか。我々は太平洋戦争の敗北によって、滅亡の渕に追い込まれた。この日本が立ち上がるためには、我々は、必死の再建運動を続けなければならない。そのためには「政治が文化の眼を、文化が政治の力を」もたなければならない。この点に鑑み、我々は文化を、都会及び特権階層の独占から解放し、我が郷土大貫町に文化を中心とする団体を作りたいのである。志を同じくする者相寄り相集まって、真摯な探究に生きようではないか。心ある人々よ、共に手を取り合って進 もうではないか。心おきなく続々と加入されんことを!
    昭和21年3月吉日 大貫町文化連盟 潮会  −苅込碩弥著『はじめにまちありき』より−
   
  
 これをビラや壁新聞に書いて会員募集をやったわけです。 この時に、近藤の土橋重四郎(水月)さんという方は農家の出身ですが、俳句をやっておりまして、潮会誕生を祝して、「 磯椿潮さびして花もてる」 という句をよせて下さいました。
 主な顔ぶれは以下の通りです。復員者もいれば、疎開者もいる。教員や学生もいるし、家業についている者もいる。このようにして潮会はスタートを切ったわけです。
  壁新聞やチラシとして配られたこの趣意書を、45年有余を経た今しみじみと読みかえすと、たしかに文章の生硬さにはご批判もあろうが、敗戦から立ち上ろうとする青年学生の純真な心意気、何よりも若者の眼の輝きを見るのである。こうして毎土曜の夜はK宅に集まり、テーマを出し合いデモクラシーの勉強会がはじまり、機関誌発行へと盛り上って行った。当時の顔ぶれは次の通りである。

 

 潮会に結集した人々

 刈込 碩弥(元教員) 堀 四志雄(東大生) 刈込弥作(実業) 掛井孝一(実業)平野美枝(高女教員) 地引初枝(国民学校教員) 平野由之(四高生) 堀 四郎(実業・青年団長) 丸 高(引揚者) 丸 隆三(高女教員) 米谷静二(資源研所員疎開者) 佐野芳子(疎開者) 村田辰雄(国鉄職員) 平野喜代子(高女教員) 榎本与七郎(実業) 鈴木利雄(日大生) 鈴木正己(専大生) 佐藤正男(一高生) 山田 正(京大生) 榎本庄壱(ラジオ研究所) 平野秀雄(実業) 山本秀道(大正大生) 榎本秀子(国民学校教員) 粕谷 正(国民学校教員) 羽山忠一(農業) 加藤義良(僧侶) 加藤義範(大正大生) 山口和男(大正大生) 堀百合子(元高女教員) 中嶋清一(大東文化学院生) 安田文雄(中央大生) 掛井のぶ子(国民学校教員) その後、平野澄子(女高師学生) 鈴木早苗(千葉大生) 池田咲子(教 員)等が参加する。−苅込碩弥著『はじめにまちありき』より−

NHKの青年討論会
昭和21年6月13日撮影
潮会の活躍は目覚ましく地域文化の振興に大きな足跡を残した。

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 忘れ得ぬ人びと −寄留していた文化人−米田富士雄さんのこと

 この運動について、大きな力となり、大変骨を折ってくださった方がいます。それは、米田富士雄さんという方です。この人は旧制五高で、元総理の佐藤栄作さんと同期であったそうです。東大の法科を出たあと、役人になって、戦争中は海務院の運航部長という要職についていました。体をこわし、しかも東京で二回も空襲にあって、どうにもならないので家を探してくれないかとの申し出がありました。
 昭和丸さん(※海運業・神明神社の近く)が横浜の海運局の役人に依頼され、小駒元治さんの分家に当たるきのまつさん(※屋号・神明神社の近く)の二階をお世話しました。 堀医院の先々代さんは、偉い人だそうだよと言っていましたが、ご本人は、自分のことについては何も言われなっかたので、ご存命中は知る由もありませんでした。事情を知ったのは、米田さんが亡くなった後、米田さんの追悼録をつくるために訪ねてきた人があり、出来た追悼録が届いたときでした。奥さんは近所付き合いのよい方で、西風が吹くと、もんぺ姿でまつご(※方言・松の落葉・当時は貴重な燃料でした。)を掃きに行ったり、あおさを採りに行ったりしていました。ある日、米田富士雄さんを町の青年二人が訪問しました。私達が結成した文化団体「潮会」を雑誌に出したいので、是非原稿を書いて頂きたいといと言うことでした。
 氏はこれを快く承諾下さいまして、早速、筆をとり「敗戦一年一大貫町民の回顧」と題する一文をしたため、最後を次のような言葉で結んでありました。

「私は今日、非常なる努力をもって、わが国に民主主義の殿堂が空高く築き上げられんとしていることに呼応して、我が国民が、この大殿堂の主たるに十分なる資格を持つように、啓蒙運動は力強く展開されることを切望するものであり、その運動においては、純真にして尽きることを知らない組織力と実行力とに燃える青少年の果たす役割も大なることを考え、青年男女の奮起を待望してやまないのである。」 −講師朗読−

と「潮会」機関誌にも、この追想録にも書かれています。
 米田夫人は、日本の騎兵隊の創設者であり、司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」の主人公としても知られている秋山将軍の四女ということを後で知り、吃驚しました。 籠を背負い熊手をもって、まつごを掃いていたあの人が、松山出身の秋山将軍のお嬢さんであったとは!
 秋山兄弟の兄は明治の陸軍騎兵隊の創設者で陸軍大将、弟は東郷元帥と並んで指揮をとった秋山参謀であった、ということを取材に来た人に聞いて初めて知りました。私たちの旅館業組合の全国総会は、各地を回って開かれますが、四国の松山で総会が開かれたことがあります。この機会を逃してはならないと思い、飛行機から降りるとすぐタクシーで秋山将軍の銅像が立っているところへ行きました。
 銅像は公園の入り口にあり、その奥には、弟の秋山参謀の銅像がありました。
 何故、兄を入り口に置き、弟を奥のいい場所に置くのかなと思いましたが、後で聞いたところによりますと、建てた人が、かたや海軍の関係者、かたや陸軍の関係者だったので、場所の選定で調整がうまくつかなかったようです。旅館業組合の人の勧めで、お墓にもお参りして来ました。松山では、正岡子規は家が裕福であったが秋山家はそうでなかったので、はじめから軍人になることを目指していたことも聞きました。 帰ってから、米田さんの奥様にお電話をしました。奥様は80歳になられ、健在でした。「秋山将軍のお墓にお参りしてきました。」といったら、大変喜ばれて、「実は銅像はもとは乗馬姿でしたが、戦争中の資材供出のため取壊され、戦後建て直した銅像は立姿に変わりました。」と話しておられました。
 特に私が驚いたことは、秋山将軍は陸軍大将でありながら、松山中学校の初代校長を引き受けたことです。こんなことは、千葉県では考えられないことでした。しかも私がお参りしたお墓は、教え子たちが資金を出し合って作ったとも話しておられました。大貫町には当時、いろいろな方が寄留しておりましたが、お話ししたような事情で、米田さんは忘れ得ぬ方であります。

  忘れ得ぬ人びと黒田乙吉氏のこと

 黒田精工の創設者であり、初代社長であっ方の兄に当たる黒田乙吉氏は、毎日新聞に居られ、夏期大学をやったとき、講師をお願いしました。黒田氏は当時、毎日新聞の編集顧問をしておられました。
 明治21年生まれで、熊本師範を卒業後教員をしていたそうですが、当時は大正デモクラシー華やかな時代で、氏もロシア文学に非常にあこがれていたそうです。
 何とかロシアに渡りたいということで、教員を一年半でやめ、地元の教会に通って、牧師(※神父か?)からロシア語を習ったそうです。 当時、直接ロシアへ渡る方法がなくて、ひとまず満州のハルビンに行ったそうです。ハルビンでは、その日の食べ物にも事欠く生活だったそうです。 たまたま「満州日々新聞」に空きがあり、いまでいうアルバイトでそこに入り、原稿を書いていました。いいものができると、大阪に本社のある毎日新聞がそれを使ってくれ、原稿料を得ていたと言うことです。
 毎日新聞というのは子飼いを大事にする会社でして、私達が付き合った人の中にも、給仕からのたたき上げで、部長になった人がおります。
 それから黒田氏は、毎日新聞の留学生試験にパスし、毎日新聞の留学生としてモスクワへ行き、そのまま駐在員になりました。モスクワ駐在員でいたときに、ソビエト革命が起きました。 その時、モスクワには朝日新聞も他の新聞も日本の特派員がいなくて、毎日新聞の黒田さんの独壇場でして、ロシア革命の記事をかきなぐったということです。私もその記事のことについては何遍か聞いたことがあります。
 そんなわけで、夏期大学では黒田先生にたいへんお世話になり、「ロシア問題」は夏期大学を始めてから、三年間連続でやりました。
 夏期大学を始めたきっかけは、「潮会」ができたときに、米田さんから「NHKが地方の文化状況を知りたがっているから、潮会がやっていることをNHKへ送ったらどうか。」という話があり、送ったら、担当の方が来まして、録音をしようということになりました。そのころの録音というのは、テープレコーダーがでる前でして、レコード板に直接採っておりました。 配布資料に、神明神社前で撮影した記念写真がありますが、そのときの写真です。

 堀四志雄さんのこと

 堀さんはまだ東大の学生で「将来は新聞記者になりたい。」と言っておりました。NHKはその頃、初めて放送記者を採用したそうです。 新聞社が、独自で海外特派員を出せなかった頃は、通信社から海外ニュースを買っておりました。東京の新聞は戦前から、海外へ特派員をだしておりましたが、NHKは共同通信や同盟通信からニュースを買っておりました。 今では大手の新聞社は、海外に特派員をだしているので、地方新聞が通信社から海外ニュースを買っています。
 そんなわけで堀さんはNHKの試験を受けまして、確か2番で入ったそうです。労働問題に詳しかったので、労働省に入る話もあったようです。あの頃は、アメリカ軍政部の圧力が強くて、レッドパージなどもあり、自由党の吉田 茂さんが総理をしていた時代です。「潮会」の録音放送以来、ご指導をいただいていたNHKの金田氏が考査課長に就任したとき、私は乞われて、社外モニターをすることになりました。
 その時引き受けたのが私ともう一人、一高・東大卒の人で、外務省に入ったが胸をこわして富津で療養していました。その父親は富津で漁業組合に勤ているということでした。 治ったら外務省へ帰るかのと聞いたら、「入ったときの同僚はもう課長になっている、帰らない。」と言っていました。「一高・東大を出ただけでは、外務省の中では頭が上がらない。」のだそうです。その後その人は、防衛庁へ行きました。 堀四志雄さんが名を上げたきっかけは、不思議な縁で、偶然にも松山です。 昭和25年の4月にNHK千葉放送局へ挨拶に参上すると、堀四志雄さんがきておりました。聞くと「松山の報道課長の辞令がでたので、千葉放送局へ挨拶に来た。」と言っておりました。 教員の勤評問題は、松山が発端でした。それをいち早くスクープして、 それがきっかけでまた本部に戻り、その後の出世コースに乗ったようです。あの頃の忘れられない人、私にとっては黒田さんと米田さんです。 機会があればまたお話したいと思います。まとまらない話でしたが、これで終わります。  《拍手》


 質 疑

白井敏夫代表
 先生、どうもありがとうございました。
 最初にお約束しましたように30分程、質問の時間をとりたいと思います。
 私は2点程、先生にお伺いしたいと思います。
 大貫と佐貫に誘致された黒田精工、尾崎製作所、林時計の三社を新日鉄などと比較すると、公害を出さない企業だというお話をうかがっております。
 もう一つは、著名な大学教授とか、のちに最高裁の長官になられた方を講師に招いたり、NHKの取材に協力したりという「潮会」や「夏期大学」の活動がきっかけとなって、戦後いち早く談合の人選から、民選に切り替える動きがあったというお話でした。 このような過去の実績は、現在でも、行政や教育その他多方面にわたって適用できることではないかと思います。その辺のことについて、先生のお考えをお聞かせ下さい。

苅込碩弥氏
 今考えてみますと、先輩たちにかなわないことはたくさんあります。60年以上も前に誘致したのは、黒田精工、尾崎製作所、それから林時計など、いずれも煙突の無い工場です。私達には及びもつかない知恵です。
 明治16年、三木文左衛門という村長がおりました。房総の漁民の生活改善と漁業発展のために、水産学校を建設して欲しいと、千葉県知事に陳情しました。それも自分の村だけではなくて、房総の漁村に一つずつ建ててほしいと言うのです。
 終戦直後、町は、昭和21年4月1日付で、町立の大貫高等女学校を発足させております。同日付けで、木更津にも市立の高等女学校ができましたが、こちらは間もなく廃校になってしまいました。
 当方は、後に県立君津商業高等学校になりました。初代校長は縄田先生、教頭は小駒先生でした。以前、当館に泊まられた岩手県八戸の高校教員は、文部省で君津商業高校の見学を勧められたと言っていました。 我々の先輩には先見の明があったということです。

白井敏夫代表
 他に質問がありましたらお願いします。 《特になし》
ないようでしたら、お手元に配られている資料について、平野会員からご説明いたします。

平野正己会員
 お手元の資料をご覧下さい。先ほど、碩弥先生から「潮会」をNHKが取材・採録に来た話がありましたが、最初の写真は、その折に撮った一枚です。昭和21年6月13日だそうです。
 その次にあります書籍飢饉という資料ですが、これは「大佐和まちづくり懇話会」が毎年一回行っている、「まちづくり写真展」で掲示された資料写真の説明文です。
 碩弥先生からは毎回、多くの資料を頂いておりますが、そのおりの資料写真説明文の一部です。終戦直後、飢饉があったのは、食料や衣料だけではなく、書物の飢饉もひどかったそうです。
 次のページには封筒と手紙のコピーがあります。 自然科学を勉強された方なら名前はご存じと思いますが、北大の中谷宇吉郎教授(※雪の博士の愛称で、世界的に著名な科学者)よりの書簡です。碩弥先生宛に中谷博士から来た手紙です。
 碩弥先生は、中谷博士の師匠であった寺田寅彦(※物理学者・藪柑子集等多くの名著を残した。)の随筆集がほしいということで、ずいぶん探したそうですけれど、手に入らず、直接中谷教授のところへ手紙をだしたのです。 まさかと思っていたら、本当に中谷博士から返事が来たということです。これは私信ですので碩弥先生の了解をいただいて載せてあります。 その次に目次と書いた資料があります。謝辞とか冬彦集とか書いてありますが、これは碩弥先生があちこちから借りて、書写した寅彦作品集の目次です。そのあとに内容のコピーが2枚あります。

 今日、碩弥先生から配布頂いた「美しき文化の集い、潮会の誕生」という文章がありますが、その中に、「我々は文化を都会および特権階層の独占から解放し、・・・・・ 志を同じくする者相寄り相集まって、真摯な探究に生きようではないか。」  「しよう」ではなくて、「生きよう」となっています。 私はこれとよく似た表現を見たことがあります。宮沢賢治の農民芸術概論綱要です。堀四志雄さんが和辻哲朗教授の研究室におられたということで、納得できたような気がします。賢治研究に関する多くの著作の中に、和辻哲朗や谷川徹三の名前がよく出ていることに思い当たったからです。 この文章を拝見し、若者達の熱情と行動力に強い感動を覚えます。また、理想とその実現を求める気迫に圧倒されました。 本日の学習会では、期待通りの素晴らしいお話を聞くことができ、本当に有り難く思っています。       
    平成16年3月20日

 

 



    制作

     グリーンネットふっつ
     録音 鈴木 紀靖会員
     編集 平野 正巳会員

 

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